40周年特別寄稿 vol.4 ~開国期~ 世界へ通ずるオフロード
静岡ブルーレヴズにとって2024年は、ヤマハ発動機株式会社のラグビー部創部(1984年4月)から40周年となる一年でした。
まもなく41年目に突入するにあたり、日本ラグビー界を熟知するとともに、静岡ブルーレヴズオフィシャルライターでもある大友信彦さんに、このクラブの40年の歴史の一部をその貴重な取材ノートと共に紐解いてもらった40周年特別コラム。
最終話は、"ブライトンの奇跡"から今日まで。
深夜に訪れた衝撃
ヤマハ発動機ジュビロ(以下、ヤマハ)が日本選手権初優勝を飾ったのは2014年度。決勝が行われたのは2015年2月28日だった。
そこからの1年間はヤマハだけでなく日本ラグビーが激動の時間を送った。
2015年9月20日未明、日本列島に激震が走った。それはラグビー界だけでなく、社会的な事件だった。イングランドで開かれたワールドカップで、日本代表が強豪・南アフリカを破る大金星をあげたのだ。
それまで日本代表のワールドカップにおける勝利は、1991年大会でジンバブエを破ったのが唯一だった。日本代表の24年ぶりの勝利。そこには2人のヤマハ戦士が出場していた。1人は背番号13のCTBマレ・サウ。もう1人は背番号15、FBの五郎丸 歩だ。
特に五郎丸は、南アフリカ戦の後半に鮮やかなサインプレーで抜けてトライをあげ、5本のPGと2本のコンバージョンキックを成功。日本代表勝利の立役者となった。続くスコットランド戦には敗れたものの、相手WTBをゴールライン寸前でコーナーフラッグへ突き飛ばすトライセービングタックル。サモア戦では2C4Pの16得点、最後のアメリカ戦では2C3Pの13得点をあげ、日本を連勝に牽引。2試合連続でマン・オブ・ザ・マッチを受賞した。日本代表は勝ち点差で8強進出を逃したものの、ワールドカップで初の3勝をあげる大躍進をみせた。大会終了後に大会のドリームチーム(ベストフィフティーン)のFBに選ばれた五郎丸はその象徴だった。
変わった景色
ワールドカップ後、日本のラグビーの景色は変わった。
帰国後初の実戦となった東芝とのプレシーズンマッチは、平日昼間の試合にもかかわらず浜松市の遠州灘海浜公園球技場に3,000人の観衆が詰めかけた。トップリーグ第4節のコカ・コーラ戦では熊本市のうまなか・よかなスタジアム(現・えがお健康スタジアム)にトップリーグ歴代2位となる18,005人の観衆が集結した。第6節の神戸製鋼戦ではヤマハスタジアムに9年ぶりの1万人越えとなる12,842人が集まり、第7節のキヤノン戦は、サントリーvs東芝という人気カードとのダブルヘッダーということもありトップリーグ史上最多の25,164人の観衆が集まった。
五郎丸はプロ野球日本シリーズ第1戦の始球式を務め、人気テレビ番組「SMAP×SMAP」にも出演。日本忍者協議会からは「Master of Ninja」の称号を贈呈された。
ワールドカップ終了後にはオーストラリアのレッズからオファーを受け移籍。2016年スーパーラグビーを戦うと、2016年から2017年にかけてはフランスリーグTOP14のトップクラブ・RCトゥーロンへ。ヤマハの看板選手だった五郎丸は、わずか1年余りの間にワールドカップ、トップリーグ、スーパーラグビー、フランスリーグと活躍の場をめまぐるしく変えていった。
日本ではスーパーラグビーに参戦するサンウルブズが結成され、そのサンウルブズと対戦するために南アフリカやオーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチンからたくさんのチームが訪れた。日本のラグビー界は急速に開国が進んだ。
新時代へのプロローグ
ピッチの中でもヤマハ発動機ジュビロは毎年、優勝争いを演じた。
2016-17シーズンは16チーム総当たりのリーグ戦のみで順位が決められた。五郎丸の抜けたヤマハは開幕から12連勝と好調な戦いをみせたが、サントリーとのクリスマス決戦に敗れて2位。16チームが2つのカンファレンスに分かれ、13チームと対戦する変則リーグで行われた2017-18シーズンは五郎丸が復帰。ホワイトカンファレンスでパナソニックに次ぐ2位となったが、プレーオフ準決勝でサントリーに敗れ、3位決定戦でトヨタ自動車を破り最終順位は3位。ワールドカップ前年の2018年度は2組に分かれてのリーグ戦と全順位決定トーナメントで行われ、ホワイトカンファレンスで1位になったヤマハは準決勝でサントリーに延長戦の末25-28で敗れ、またも3位となった。常に優勝を争うものの、なかなか頂点には届かないまま、このシーズンを最後に清宮 克幸監督は退任した。
ワールドカップ日本大会を経て迎えた2019-20シーズンは、活動縮小時のチームを率いた堀川 隆延監督(現・アシスタントコーチ)が復帰。6節まで5勝1敗の3位につけていたがコロナ禍でシーズンが打ち切られた。そしてトップリーグラストイヤーとなった2021年は、ホワイトカンファレンスで3勝4敗の6位に沈み、8強入りをかけたプレーオフ2回戦でクボタに敗れてシーズンを終えた。
五郎丸は開幕前にこのシーズン限りでの現役引退を発表。最後のクボタ戦は負傷でメンバーから外れ、スタンドから見守った。その静かな姿は、チームに変革が求められていることを暗示していた。
”静岡ブルーレヴズ”の誕生
2022年。日本のラグビー界はトップリーグからリーグワンへ再編された。
その開幕から遡ること半年、まだ新リーグの名称も発表されていない2021年6月23日。ヤマハ発動機ジュビロは、株式会社静岡ブルーレヴズとして新たなスタートを切った。
株式会社化、地域密着――それは新リーグ立ち上げの理念を先取りするアクションだった。
ヤマハ発動機は社員選手の雇用を続けたが、ラグビー事業部門は別会計の別会社とし、社員選手は期間限定でそこへ出向した。従来のチーム運営費は広告宣伝費(スポンサー料)として静岡ブルーレヴズに支払われ、お金の出所は同じでも、そこには必然的に緊張感が生まれる。社長についた山谷 拓志、CRO(クラブ・リレーション・オフィサー)に就いた五郎丸 歩は静岡県内を中心に営業活動を重ね、多くの企業からスポンサー収入を得た。すべて、ラグビーチームが社会的に自立するための試みだった。
そしてチーム名からは「ヤマハ」という企業名を外した。リーグ側は社名を入れても可としたが、ヤマハの経営陣はあえて自社の名前を消すことを求めた。ブルーレブズ管理部長として分社化の実務を担った上田 弘之は、役員会で経営陣の幹部からこんな言葉を聞いたという。
「『世界で戦うレヴズはヤマハのチームなんだね』と言われるようになってくれ」
それは感動創造企業として世界中でモータースポーツを戦い、レーサーを支援し、レース活動を続けてきたヤマハが持っていた、世界で戦うクラブの矜持だった。
成績自体は、望んだところには達していない。
リーグワン1年目は8位、2年目は8位。そして3年目も8位。ディビジョン1の12チームの中で、下との入替戦には回らないけれど、優勝を争うプレーオフにも進出できていない。じれったい順位が続いている。
胸を熱くさせる、忘れられない試合はいくつもあった。
リーグワンの1年目、アイスタに(実際に戦った試合では)全勝のワイルドナイツを迎え、最後に逆転されたものの終了直前までリードを奪った戦い。2年目、そのワイルドナイツの開幕からの連勝を14で(今度こそ!)止めた雨の熊谷の戦い。3年目、前年王者のスピアーズをアイスタに迎え、0-31の劣勢から後半に猛攻、31-31のドローに持ち込んだ驚異のカムバック。印象的なパフォーマンスは何度も何度も演じた。
だが殻は破れていない。2021年のブルーレヴズ設立時に掲げた「静岡から世界を魅了する、日本一のプロフェッショナルラグビークラブをつくる」というミッションは、いまだ達成できていない。
静岡であることの意味
その一方で、ブルーレヴズが続ける”ワン&オンリー”な取り組みもある。
ブルーレヴズのラグビースクールは、毎年岩手県釜石市へ遠征している。
釜石との交流は2011年の東日本大震災直後に始まった。当時、活動縮小から再びの強化に足を踏み出したばかりのヤマハ発動機ジュビロは、就任間もない清宮 克幸新監督のもと、震災から3ヵ月も経っていない釜石へ遠征して釜石シーウェイブスと試合を行った。
以来、釜石シーウェイブスの交流は続く。さらに、リーグワンが発足した2022年からはブルーレヴズのラグビースクールが毎年釜石へ遠征。ラグビーの交流だけではなく、震災伝承施設を訪れ震災の教訓を学んでいる。
ブルーレヴズの取り組みはそれだけではない。
ヤマハスタジアムを訪れるビジターチームのスタッフたちは「ブルーレヴズはいろいろやってますね」と口を揃える。
キッチンカーの充実、移動動物園、はたらくクルマの大集合、ヤマハならではのGPマシンやモトクロスマシンの展示、トライアルの実演……それは、エンターテインメントとして地域に根付いていこうという強い意思の表れだ。
リーグワンはこれまで埼玉、東京ベイ、BL東京と、すべて首都圏のチームが優勝している。そもそもリーグワンのチームは首都圏に集中している。日本の人口分布や交通事情、産業の集積、大企業の本社の分布、娯楽施設…などを考えればそれは必然的とも思える。だが、当たり前だが日本は首都圏だけではない。地方には多くの人が暮らし、産業があり、生活があり、その土地ならではの魅力があり、余暇を楽しむべき時間がある。
そして地方のチームには、その地域を勇気づけるだけではない、もっと大きなポテンシャルがある。ブルーレヴズが静岡から発信する勇気は『地方チームの勝利』として、静岡だけにとどまらず、全国へ、そして世界へ届けられる。
それもまた、40年前にヤマハ発動機ラグビー同好会が産声をあげて以来、地域の人たちを元気づけ、OBが世界で活躍し、世界から人を呼び込み、連綿と培ってきた文化そのものなのだと思う。