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40周年特別寄稿 vol.1 ~黎明期~あの回り道は今に繋がる道

創部40周年にあたり

本年、静岡ブルーレヴズは、1984年4月のヤマハ発動機株式会社ラグビー部の創部から数え、クラブとして40周年を迎えました。

これまでヤマハ発動機株式会社ラグビー部、ヤマハ発動機ジュビロ、静岡ブルーレヴズと共に歩み支えていただいた皆様に心より感謝申し上げます。

2024年3月2日には「YAMAHA RUGBY FOOTBALL CLUB 創立40周年記念マッチ supported by 株式会社ミクニ」を開催。埼玉パナソニックワイルドナイツOBとの豪華なレジェンドマッチには多くのファンが駆けつけ、その懐かしさに浸っていました。

まもなく41年目に突入するにあたり、この40年間にどんな出来事があり、先人たちが何を想いこのクラブを紡いてきたのかー。

日本ラグビー界を熟知するとともに、静岡ブルーレヴズオフィシャルライターでもある大友信彦さんに、このクラブの40年の歴史の一部をその貴重な取材ノートと共に紐解いてもらった。

複数回に渡ってお届けする”40周年特別寄稿”の第一号。

「がんばれよおじさん」

1990年代前半、秩父宮ラグビー場に通称「がんばれよおじさん」という人がいた。
おじさんは特定チームのファンではなかったようで、たいていは秩父宮ラグビー場のメインスタンドに陣取って「早稲田がんばれよ~」「明治がんばれよ~」「東芝がんばれよ~」「サントリーがんばれよ~」と、おおむね平等にエールを贈っていた。スクラムを押したりトライを取ったりしたときに一喜一憂するわけでもない。悪口系のヤジは口にしない。

なんというか、牧歌的なファンだった。

その頃僕は、スタンドで友人たちと一緒に試合を見ることも多く、おじさんの楽しい応援を至近距離で聞くのが楽しみだった。

 1994年12月、ヤマハ発動機ラグビー部は初めて社会人大会に駒を進めた。会場は秩父宮ラグビー場。1回戦で対戦したのは東芝府中。東日本社会人リーグでは6勝1敗で三洋電機と並び、同点優勝を飾っていた。初出場のヤマハ発動機(以下、ヤマハ)は青いジャージーが代名詞だった先輩チームに敬意を表し、濃紺のファーストジャージーではなく純白のジャージーで初めての全国大会に臨んだ。

その日も「がんばれよおじさん」は秩父宮のメインスタンドに座っていて、いつものように大声をあげた。

「東芝がんばれよ~」

だが、相手チームの白いジャージーはおじさんにとって初お目見えだった(当然だ)。おじさんは「白がんばれよ~」と叫ぶと、数列後ろに座っていた僕らの方を振り向いて聞いてきたのだ。

「白は……どこ?」

思わず僕らは笑ってしまった。そして、教えてあげた。
「ヤマハ発動機ですよ。静岡のチームで、初出場です」

第47回全国社会人ラグビー大会初出場の際に作成。対東芝府中戦のみ着用した。

メンバー表に名を連ねるキーマンたち

このように、ヤマハの全国初陣は認知度の高くない中で行われた。

その日のヤマハのメンバーは、先発15人のうち、同志社大OBが6人で大阪体育大OBが3人。龍谷大と大商大のOBも含めれば15人のうち11人が関西大学リーグ出身だった。
【1994年の社会人大会初出場試合先発メンバー】
①   岡田修 26 同志社大
②   浜浦幸光 25 筑波大
③   大高健志 24 大阪体育大
④   上田弘之 26 同志社大
⑤   スティーブン・ランカスター 23 オークランド大(NZ)
⑥   後藤禎和(主将) 27 早大
⑦   中尾晃 27 同志社大
⑧   デビッド・アトキンス 23 オークランド大(NZ)
⑨   浜村裕之 23 龍谷大
⑩   川﨑登茂行 25 大商大
⑪   朝比奈豊 26 同志社大
⑫   佐野順 28 同志社大
⑬   森川泰年 22 同志社大
⑭   松坂浩二 24 大阪体育大
⑮ 東口文彦 23 大阪体育大

大学時代に日本一を経験したのは主将だった後藤さん。早大時代にのちヤマハ監督となる清宮克幸さんと同期で1989年度の大学日本一を経験し、後に自身も早大監督も務めた。1番岡田さんと7番中尾さん、12番佐野さんは同志社大で1987年度の大学選手権決勝を経験。
4番の上田さんは身長195cmという当時国内最長身クラスのロックで、同志社大時代に日本代表候補に選ばれ、のちブラジル等での海外勤務を経験し、静岡ブルーレヴズ設立時に管理部部長としてチームの株式会社化に裏方として尽力した。
2番の浜浦さんはサッカー・ジュビロ磐田の現社長だ(磐田でラグビー部を始めた息子の幸太郎さんは中部大春日丘を経てお父さんと同じフッカーとして同じく筑波大の1年生で試合に出場している)。

全国初陣を果たしたヤマハには、後のヤマハ発動機ジュビロそして静岡ブルーレヴズに連なる節目で活躍するいろいろなキーマンが名を連ねていた。

いざ、初陣。

試合は、東芝府中が東日本リーグ優勝の実力を発揮し、90-13という大差で圧勝した。でも実は、試合の最初にリードを奪ったのはヤマハだった。ヤマハは開始5分にSO川﨑さんが左中間36mの位置からPGを決めて先制。6分にも2本目のPGを決めて6-0とリードを奪ったのだ。

ただし、夢の時間は長くは続かなかった。15分に東芝府中がトライとコンバージョンの7点をあげると、あとは分刻みでトライの山が築かれた。東芝府中には後にワールドカップで日本代表の主将を務めるアンドリュー・マコーミックさんがいて、後にフランスでのプレーを経てヤマハに加わる村田亙さんがいた。東芝府中は前半だけで5トライをあげて36-6とリードして折り返した。

それでもヤマハの先輩たちはやられっぱなしではなかった。後半早々にはSO川﨑登茂行さんがDGにチャレンジ。24分にはFL中尾さんが相手ゴール前のPKから速攻をかけてインゴールに入るが、判定は「ノーキック」でトライならず。それでもチャレンジャーは意気消沈しなかった。残り時間僅かとなった39分にも敵陣に攻め込み、SOの川﨑さんがゴールポスト付近にハイパント。東口さんが相手BKと競り合ったこぼれ球をCTB森川さんがインゴールに押さえ、ヤマハの記念すべき全国初トライが記されたのだ。

最終スコアは90-13。東芝府中の圧勝だった。

当時の取材ノートに、ヤマハ主将の後藤さんが試合後に語った感想がある。
「僕ら、甘いですからね。最初の15分くらいは保ったけど、そこまでの実力しかなかった。僕個人的には、強い相手とやれて楽しかったけど、チームとしては力の差を感じました。今年は全国大会出場が決まってから気持ちを入れ替えて準備したけど、最初からここを目標にしているチームとは差があった」

初めての全国大会とは、こういうことだったのだろう。ノートには、黎明期のヤマハラグビー部の立ち位置を伝えるエピソードが他にも残っていた。
ヤマハラグビー部最初の外国人選手としてこの試合に出場したLOスティーブン・ランカスターとNO8デビッド・アトキンスはともにオークランド代表候補だったが、NZのヤマハ販売店から「大学を卒業したばかりで、オートバイが好きで、日本でラグビーをやりたいと言ってるヤツがいるんだ」という情報が入り、入社が実現。前年に来日してまず日本語を学び、社内研修を積み、正社員として部に加わっていた。

当時の部員は選手40名、コーチ・スタッフを合わせて50名。練習は平日が火曜と木曜の18時30分からで、試合がない日曜日は午前10時から。選手はみな、フルタイムで社業に就きながらラグビーに打ち込んでいた。

必要だった回り道

強化に本腰を入れはじめた当時は、東海社会人リーグに加盟するか関西社会人のCリーグからスタートするかの調整で足踏みがあり「強化を初めて5年で」達成するはずだった全国大会初出場も2年遅れてしまったという。

足踏みはそこからも続いた。この翌年の95年はBリーグ2位に終わり、社会人大会には進めずシーズン終了。96年度はBリーグで1位となり、社会人大会代表決定戦で本田技研を破って2度目の全国キップを掴み、この前年から導入された1次プール戦で日新製鋼を破り全国初勝利をあげたが、満を持して臨んだ入替戦では、Aリーグで全敗に終わった三菱自工京都に19-26で敗れてしまう。

「あのときは落ち込みました」と、のちに何人ものOBから聞いた。全国大会優勝経験もある名門・三菱自工京都はこの年のリーグ戦を全休したフィジー代表のレジェンド、魔術師・ワイサレ・セレヴィが入替戦に突如として(?)出場し、ヤマハ防御を切り裂き野望を打ち砕いたのだ。

だがそれも、今となっては必要な回り道だったと思う。東日本/関西の社会人リーグ時代もトップリーグ時代も、新たに昇格したチームの多くはフィジカルレベルの違いに苦しみ、昇降格を繰り返すエレベーターチームになってしまう。
ヤマハは翌97年度、前季敗れた三菱自工京都に47-0で完勝してA昇格の悲願を果たすと、初参戦の98年に4位、99年も4位、2000年に一度7位まで後退するも2001年には2位と順位をあげ、関西社会人リーグのラストイヤーとなった2002年度に初のAリーグ優勝を果たす。

そして翌2003年に発足したトップリーグ、さらに2022年に始まるリーグワンに静岡ブルーレヴズとして参戦しても一度も降格することなく、常に最上位リーグで戦い続けている。

きっとあの回り道は、すぐに成功を掴めなくても決して諦めない、粘り強く戦い続けるというチームカルチャーを築いたのだ。それは間違いなく、静岡ブルーレヴズにも受け継がれている。


大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。