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40周年特別寄稿 vol.3 ~再生期~明け方の夢

本年、静岡ブルーレヴズは、1984年4月のヤマハ発動機株式会社ラグビー部の創部から40周年を迎えました。

まもなく41年目に突入するにあたり、日本ラグビー界を熟知するとともに、静岡ブルーレヴズオフィシャルライターでもある大友信彦さんに、このクラブの40年の歴史の一部をその貴重な取材ノートと共に紐解いてもらった。

第3回は、トップリーグ時代の幕開けから、”あの日”までの物語。

夜明け

2003年、日本ラグビーで初めての全国リーグ「トップリーグ」が誕生した。

この年、僕は著名なサッカーライターのGさんと対談する機会があった。
Gさんは新たに発足するラグビートップリーグに強い関心を持っていた。僕は、運営形態やスケジュール、各チームの取り組み方などの質問ひとつひとつに、できる限り丁寧に答えた。

一通り質問を終えたGさんは「つまり、サッカーの日本リーグなんですね」と言った。

ちょっと拍子抜けした調子だった。サッカーのJリーグが誕生してちょうど10年が経過していた。ラグビー界はそこからどんな影響を受けていたのだろう?そんなGさんの興味に応えられなかったことは、僕にとってもちょっと残念だった。

旧トップリーグは、東日本、関西、九州に分かれて行っていた社会人ラグビーリーグを全国規模で再編したもので、それ以上でもそれ以下でもなかった。試合は協会の仕切りで行われ、入場料収入は協会に入る。観客をたくさん集めたチームに与えられたのは年度末に開かれる表彰式での『功労賞』や『ベストファンサービス賞』という名誉だけ。各チームは母体企業の経費でチケットを買い取り、それを社員や得意先に分配し、観客席を盛り上げた。多くのチームは企業チームのまま、包装紙が変わっただけだった。

そんな中でも、新たな取り組みにチャレンジしていたチームはあった。
そのひとつが、ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)だった。

ヤマハスタジアムでの開幕戦

トップリーグ1年目の2003年12月7日、初めてヤマハスタジアムで行われたホームゲームは、前年に国内タイトルを独占していた王者・サントリーとの一戦だった。サントリーとの試合は、従来なら東京や大阪で行われる全国大会でしか実現しなかった黄金カード。
この試合でヤマハは、ワイサキ・ソトゥトゥと西村弥の両WTBが1トライずつあげ、SO堀川隆延(現アシスタントコーチ)が2C1Pのキック3本を決め、17-10で勝利した。

ヤマハ発動機はトップリーグ1年目、初めて本拠地・磐田で行ったゲームで、チーム創設以来初めてのサントリーからの勝利をあげたのだった。

声援に応える選手たち

この日の公式観客数は「9,500人」(国内ラグビーで観客の実数発表が始まったのは翌2004年度からだ)という盛況だった。そして試合後、スタジアムに隣接する体育館で、両チームの選手とファンが参加する公開アフターファンクションが行われた。対戦したチームの選手同士が互いの健闘をたたえ合い交流する場に、ファンが招き入れられた。前年の絶対王者を地元で打ち破った勝利に感激したサポーターの皆さんは大変な喜びようで、ゴキゲンで祝杯を重ね、勝利したフィフティーンを大きな拍手で迎え、敗れた相手チームの選手たちにも称賛の拍手を贈った。

ラグビー文化の根幹をなすリスペクトの精神を、新時代最初のホームゲームで示したこの会は、それまでラグビー不毛の地と呼ばれた静岡の地にラグビー文化を根付かせようというチャレンジの表れであり、現在のブルーレヴズに連なるホスピタリティの第一歩だった。

ヤマハはこのシーズン、リーグ戦で12チーム中3位の成績を残す。翌2004年度は東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)と優勝を争い、最終順位は2位。
リーグ戦に続いて行われたマイクロシフトカップでも決勝に勝ち進んで東芝府中と再戦。6-20で敗れたが、リーグの2つの年間タイトルの両方で準優勝。頂点を掴むのは時間の問題だと思われた。

東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)に挑む

史上最大の危機

だが、道のりはたやすくはなかった。2005年度は7位に後退。14チームに拡大された2006年度は3位(リーグ戦第2節では清宮監督が就任したサントリーに初黒星をつけ、プレーオフ準決勝でも死闘を繰り広げた)だったが、2007年度からは7位、7位、そして2009年、突然のショックがチームを襲う。


『ラグビー部の活動縮小』だ。


発端は、リーマンショックに伴う会社の経営不振だった。11月16日、選手42人のうち外国人8人、日本人9人のプロ選手と「来季はプロ契約しない」という方針が公表された。

実際は、そこまでの縮小にはならなかった。
第一報から1週間後には「複数年契約を結んでいる選手については契約を続行し、強化は継続」という方針が発表された。陰では数多くのラグビー部OBや関係者が水面下で動いていた。ヤマハ発動機社内では多くの部署でラグビー部OBが活躍している。ラグビー部のOBは言葉や生活に不自由な海外、特に発展途上国にも果敢に出向き、ときにはラグビーで培った人脈も活用しながら販路を開拓し、業績向上に貢献してきた。

縮小を発表したときの社長が体調不良で早くに退いた事情もあった。だが、ヤマハ社内の各部署でラグビー部の認知度が高かったことが、強化継続の決め手だった。当時のトップ選手だった大田尾竜彦(現早大監督)や矢富勇毅(現アシスタントコーチ)、五郎丸歩(前CRO)らプロ選手は社員として残留。その一方で、それまで社員選手として活動してきた主力選手が多くチームを離れた。翌2010年はトップリーグ14チームでは最少の36人でシーズンを戦った。

縮小危機に見舞われた2010年のスコッド

開幕前、副将に就いた五郎丸は言っていた。

「人数も減って、戦力も落ちて(下部リーグに)落ちるだろうと思う人がいるでしょうけど、そういう目を逆に力にしたい。ここで結果を出せば、今まで以上に注目してもらえるチームになる」

監督の堀川は言った。

「同じ時間でも、人数が少なければ倍密度の濃い練習ができますよ」

だが現実は厳しかった。

地元ヤマハスタジアムで開かれたNEC(現・グリーンロケッツ東葛)との開幕戦に勝ち、続く近鉄(花園ライナーズ)にも勝利。五郎丸は2戦連続でMOM(マン・オブ・ザ・マッチ)を受賞する活躍をみせた。だが、続く三洋電機(現・埼玉ワイルドナイツ)に敗れるとそこから5連敗を喫し、最終順位は11位まで下降。初めて下部リーグとの入替戦を強いられた。相手はトップチャレンジ4位の九州電力(現・キューデンヴォルテクス九州)。最終スコアは12-10という僅差。地元ヤマハスタジアムに駆けつけた3,896人のサポーターに支えられての、ギリギリの勝利だった。
 
しかし、そこからヤマハ発動機はまさしく不死鳥のごとく復活するのだ。

蘇るサックスブルー

入替戦の3日後、ヤマハ発動機ジュビロに、清宮克幸新監督の就任が発表された。

柳弘之社長は会見で言った。

「スポーツ活動は当社のブランドイメージを体現するものであり、社員の団結力、求心力を作るもの。経営環境が悪化した時期、緊急対策としてチームを少しリストラさせていただきましたが、全社一丸となって経営改善を目指し、ようやく一段落しました。そこで、ラグビー部の活動を続けていく以上、精一杯努力をしたい。プロをやめて、社員選手を中心に活動していく方針は踏襲するけれど、監督には高度なスキルを持つプロの方を迎えて、チームの再生を託したい」

2011年3月、清宮克幸氏が監督就任

ヤマハの復活物語が始まった。

選手たちは早朝からの独身選手が住む豊田寮に設えたレスリング場でコンタクトトレーニングを繰り返してフィジカルを鍛え、徹底したスクラムの反復練習で攻撃の起点を確立した。スクラムでペナルティーを獲得すれば、チーム最大の武器である五郎丸のロングキックで陣地を進め、再びPKを得ては五郎丸がPGを蹴り込み、接戦を着実にモノにした。

2011年度のトップリーグでは8位、2012年度は6位、2013年度は5位と着実に順位を上げ、2014年度はリーグ戦4位で8年ぶりのプレーオフに進むと初戦でリーグ1位の神戸製鋼を破る。初めて臨んだプレーオフ決勝ではパナソニックに12-30で敗れたが、シーズンには続きがあった。

トップリーグの4強には、ラグビー日本一をかけて戦う日本選手権の舞台があった

30年分の夢

清宮監督就任から4年。チームは進化していた。清宮監督は試合前日の練習の現場指揮を堀川ヘッドコーチに任せ、大久保グラウンドのスタンドに座り、一歩退いた視点からチームを見守った。強化を縮小していた2010年に入部を決めたFL三村勇飛丸主将のもと、選手は自立し始めていた。

三村は言った。「今はキャプテンの僕だけでなく、一人一人がリーダーシップを取れるチームになっています」

ヤマハは準決勝で東芝を21-9で破り、秩父宮で行われた決勝ではサントリーに15-3で快勝。悲願の日本一を勝ち取る。磐田からは約50台もの貸し切りバスが東名高速を秩父宮ラグビー場に向かい、歓喜の瞬間をともにした。

14,627人の観衆には、2003年のトップリーグ・ホーム初戦のアフターファンクションで祝杯をあげた人や、2010年の入替戦で肝を冷やしながら声を枯らした人もたくさんいたはずだ。

ファンと喜びを分かち合う瞬間

SO大田尾は味わい言葉を口にした。
「きょう僕らが日本一になれたのは諦めなかったから。入替戦まで行った僕らがこうして日本一になれた。だから、今季は入替戦を戦ったチームも諦めないでやってほしい」
 
夢を与えるチームになろう――

いつも支えてくれる地元のサポーターの皆さんに向けられたその思いは、厳しい経験を経たことで熟成され、ともに戦い、ライバルになるチームにさえも向けられるものになっていた。

ヤマハ発動機ラグビー同好会が産声をあげてから、ちょうど30年目の快挙だった。