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40周年特別寄稿 vol.2 ~草創期~新しい時代の新しい風

本年、静岡ブルーレヴズは、1984年4月のヤマハ発動機株式会社ラグビー部の創部から数え、クラブとして40周年を迎えました。

まもなく41年目に突入するにあたり、日本ラグビー界を熟知するとともに、静岡ブルーレヴズオフィシャルライターでもある大友信彦さんに、このクラブの40年の歴史の一部をその貴重な取材ノートと共に紐解いてもらった。

第2回目の舞台は、2000年代初頭。

「ヤマハとやりたかったなぁ」

2002年の正月6日、全国社会人大会の準決勝だった。
2月に開幕するソルトレークシティ冬季五輪との日程重複を避けるために単純トーナメントで開催された大会の準決勝で、サントリー(現・東京サントリーサンゴリアス)はクボタ(現・クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)に104-12という準決勝史上最多得点で圧勝した。

試合後の会見が跳ねたあと、サントリーの土田 雅人監督(現・日本協会会長)は、記者の輪がほどけたところで「ヤマハとやりたかったなあ」と言って、続けた。

「やっぱり、勢いのある、新しいチームとやりたいよね」

ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)は、その日サントリーが一蹴したクボタに、準々決勝で21-22の僅差で敗れていたのだ。

この年のヤマハは、関西社会人Aリーグ昇格4年目で初めてトヨタ自動車(現・トヨタヴェルブリッツ)とワールドを破り、神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)には10-33で敗れたもののチーム史上最高順位となる2位に躍進。前年度の日本選手権決勝で引き分けて優勝を分け合ったサントリーと神戸製鋼を追う存在と目されていた。

サントリーから見れば、全国大会に入っても東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)やクボタといった東日本社会人リーグでも対戦した相手とばかり対戦するんじゃ面白みがない、観客だって新鮮みがないという思いもあったろう。

だがそれよりも、ヤマハが日本ラグビーに新しい風を吹かせていたことへの興味が優っていたように聞こえた。

実はこの前年に、サントリーは全国社会人大会の1回戦でヤマハと対戦して57-10というスコアで圧勝。この大会では決勝で神戸製鋼と死闘を演じて38-41で敗れたが、続く日本選手権の再戦では27-27、引き分け両者優勝ながら日本一のタイトルを手に入れていた。

2000年の関西社会人ラグビーAリーグは7位

だが、2001年度のヤマハは別人のようなチームになっていた。

新しい風

新たに12人の新加入選手を迎え、うち8人がレギュラー選手として活躍していた。
プロップの木原 洋一郎、フッカーの中林 正一、フランカーの木曽 一、スクラムハーフの村田 亙、CTBの今利 貞政とタンバイ・マットソン、WTBの四宮 洋平、FBの長谷川 賢。
先発15人の過半数を新加入選手が占めるという劇的な変化は、前年7位に沈んだチームに革命をもたらした。

中でも注目されたのは、日本代表で1991年、1995年、1999年のワールドカップに出場し、1999年末からフランスリーグ2部のバイヨンヌに渡り、日本人初のプロラグビー選手としてキャリアを積んできた村田 亙だが、彼だけではなかった。

7人制日本代表で活躍した木曽 一と四宮 洋平のスピードはグラウンドを広く使うラグビーを可能にし、スローペースのFW戦が中心だった前年までのスタイルを変貌させた。相手が外のスペースを軽快すればミッドフィールドを今利貞政が突破。タンバイ・マットソンは日本ではまだ認知されていなかったオフロードパスを次々と繰り出し、相手ディフェンスを切り裂いた。

スクラムハーフの村田 亙

とはいえ、チームを高みへ導いたのは新加入の選手たちだけではなかった。初めてトヨタ自動車を破った1戦、関西社会人リーグ2戦目は象徴的な試合だった。

この試合、副将のSO堀川 隆延(現・静岡ブルーレヴズ アシスタントコーチ)は負傷でメンバーを外れ、代わって先発した大草 崇史も前半で負傷。後半、代わってリザーブからピッチに入ったのは本来SHの奥 敦(おく・あつし)。前年まで主将を務めていながら、村田 亙の加入で背番号9を奪われた選手だった。

12-23と大きくリードされて迎えた後半、その奥がピッチに入り、村田 亙とHBのペアを組んだ。奥は練習でSOに入ったことなどない。それは村田も同じだった。

だが急造ペアを組んだ2人は見事にゲームをリードした。オープン展開した先の密集に奥が先に到着すれば村田はSOの位置で立ち止まり、相手防御の陣形を読んでパスを受け、次のキャリアーにパスを送り、スペースを見つければ自ら走った。村田が密集に巻き込まれれば奥が素早く走り寄ってパスを出す。「ノーハーフだ」と停滞する時間がない。

攻撃のテンポが一気に上がった。

ペアを組むことなど、試合ではもちろん練習でもなかった。だが2人はなんの打ち合わせもなしに、めまぐるしくポジションを入れ替えながら、みごとなダブルハーフ作戦を遂行。トヨタ防御網を翻弄し、33-26でみごとな勝利を飾る。

このシーズンのヤマハは、初戦で神戸製鋼に敗れた後はこのトヨタ戦から6連勝。6勝1敗で関西Aリーグ昇格以来最高の成績を収める。ヤマハ発動機のラグビー同好会として産声をあげてから17年の月日が過ぎていた。

17年目の融合

ラグビーを見れば、時間をかけて培ってきた、FWがタフに身体を張る文化の上に、ボールを速く広く動かしてトライを取るボールゲームのエッセンスが加わった。だが進化していたのはそれだけではない。

村田 亙は、ヤマハ発動機ラグビー部に初めて公式に加わった日本人プロ選手だった。
ラグビー界は世界的に、長い間アマチュアリズムを尊んできた。その中でも、企業スポーツという独特の風土を持つ日本は、競技から直接金銭を得るプロという形を忌避していた。
しかし時代は流れ、1987年に第1回ワールドカップが開催されたことから国境を越えた選手の移動が加速し、1995年の第3回ワールドカップ後にIRB(国際ラグビー評議会=現ワールドラグビー)はプロを容認するオープン化を決定。ラグビーのプロ化は一気に進み、1996年には南半球でスーパー12が発足した。試合の中で4トライをあげたチームにボーナスポイントを与えるシステムはこの年のスーパーラグビーから始まり、多くのトライが生まれ、観客を楽しませるラグビーが主流になっていった。

世界に対して後れを取っていた日本も、この年、日本協会が初めて日本代表選手とプロ契約を締結。その最初の契約選手リストに書かれていたのが、フランスで2シーズンにわたってプロ生活を送ってきた村田 亙の名前だった。

村田 亙と奥 敦が緊急事態で結成した急造ハーフ団は、世界ラグビー進化の象徴であるプロ選手と、それまで歴史を築いてきた社員選手の融合という、新時代に向かうヤマハラグビーの指針だったのだ。

冒頭に書いたとおり、この年のヤマハは全国社会人大会準々決勝でクボタに1点差で敗れ、ベスト4へは進めずにシーズンを終える。だがそれも、チームが進化していくために必要なステップだった。

翌2002年の関西社会人リーグで、ヤマハは快進撃を続けた。
開幕から順調に白星を積み重ね、11月30日に大阪・花園で行われた最終戦・神戸製鋼との全勝対決に25-21で快勝。

チーム史上初めて神戸製鋼を破り関西Aリーグ優勝を飾るのだ。


創部以来の「初優勝」そして無敵の「全勝優勝」を果たした2002年関西社会人ラグビーAリーグ

宿題は次の時代へ

実はこの年は「関西社会人リーグ」最後の大会だった。翌2003年には国内ラグビーはトップリーグに再編されることが決まっていた。言葉を変えれば、ヤマハ発動機ラグビー部は、去りゆく社会人ラグビーという枠組みに別れを告げる舞台に最後に上った。時代の変わり目に間に合った。

だが、ヤマハ発動機ラグビー部の先人たちが築いてきた、あえていえば「慎み深さ」は、ここでも顔を出してしまう。
最後の開催となった第55回全国社会人大会で、ヤマハは準々決勝でNEC(現・NECグリーンロケッツ東葛)に24-24で引き分けるもトライ数で下回り、またも4強に進めずシーズンを終えてしまうのだ。そしてヤマハと引き分けたNECは、このシーズンの日本選手権で決勝まで勝ち進み、サントリーを撃破。悲願の初優勝を掴む――。

前年に1点差でヤマハの進路を阻んだクボタは、次戦でサントリーに三桁失点を喫して敗れ去った。だが1年後、ヤマハと引き分けたNECはそのサントリーを破って日本一に輝いた。それは言い換えれば、ヤマハが日本一を掴んでもおかしくない実力をすでに身につけていることの証だった。

あとは、リアルに頂点を掴むだけ。

その宿題だけを残して、ヤマハ発動機ラグビー部は「社会人リーグ」時代を終え、「トップリーグ」時代へと足を踏み入れていくのだった……。

1998年の関西社会人Aリーグへの昇格から創部以来の「初優勝」まで共に歩んだジャージ。
このジャージにも別れを告げ、新しい時代へと進んでいく。