大友信彦観戦記 9/11 vs.釜石シーウェイブスRFC ~歴史ある釜石遠征~【前編】
Text by 大友 信彦(静岡ブルーレヴズ オフィシャルライター)
Photo by 谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)
<観戦記対象試合>
「黄金の國、いわて。」Presentsともだちマッチ2022
2022年9月11日(日)釜石鵜住居復興スタジアム(岩手県釜石市)
10:00キックオフ
釜石シーウェイブスRFCアカデミー vs. 静岡ブルーレヴズラグビースクール
12:00キックオフ
釜石シーウェイブスRFC vs. 静岡ブルーレヴズ
2022年9月11日。静岡ブルーレヴズは新シーズン最初の試合を迎えた。
降り立ったのは岩手県釜石市の釜石鵜住居復興スタジアム。2019年ワールドカップの会場になった場所だ。
釜石市は、ブルーレヴズにとって特別な場所だ。
2011年、東日本大震災が発生してから3ヵ月も経っていない6月5日、ヤマハ発動機ジュビロ(以下ヤマハジュビロ)は、まだ震災の爪跡も生々しい釜石市を訪れ、震災被害から立ち上がる町のシンボルとなった釜石シーウェイブスRFC(以下釜石)と試合を行った。それは、甚大な津波被害を受けた東北地方の沿岸部で、震災後初めてのスポーツイベントだった。支援物資の配布所や炊き出しも設置された試合会場には約1,700人の市民が集結した。その多くは、小学校や体育館に設置された避難所から駆けつけた人たちだった。
ヤマハジュビロの一行は、バスに乗って、鵜住居地区や大槌町の津波被災地を視察してから会場入りした。津波であらゆるものが破壊され、焼き尽くされた瓦礫の折り重なる光景を目のあたりにした選手たちは、誰もがここで試合をする意味を考えた。だらしない試合は絶対に見せられない――その思いは、隙のないパフォーマンスとして結実した。ヤマハジュビロの選手たちは、何かに憑かれたように攻め続けた。最終スコアは76-5でヤマハジュビロが圧勝。そして被災から立ち上がろうとする釜石のファンたちは、地元チームを完膚なきまでにたたきのめしたヤマハジュビロの選手たちに温かい拍手を贈ってくれた。
「僕らが今年、日本選手権に優勝したら『釜石戦があって優勝できた』と言いますからね」。その日、清宮克幸監督が発した言葉は、3年後に現実となった。一度は活動縮小、廃部説さえ囁かれたヤマハジュビロは、2014年度に初の日本選手権優勝、ラグビー日本一に上り詰める。そのV字回復の出発点は、この釜石遠征だった。
それ以来、両チームは毎年のように対戦、交流を重ねてきた。2017年には釜石が静岡を訪れエコパでヤマハジュビロと対戦した。2018年には、ワールドカップのために作られた鵜住居スタジアムのオープニングゲームの対戦相手としてヤマハジュビロが釜石を訪れた。2020年9月にはコロナ禍で日本中のラグビーが沈黙した中、初めての有観客試合として、ヤマハジュビロは再び釜石を訪れた。
そして今回。
「2年ぶりの釜石です」声を弾ませた堀川隆延HCは、こう続けた。
「何より嬉しいのは、スクールの子どもたちと一緒に来られたことです」
2年前、アフターコロナ最初の試合に釜石を訪れたとき、堀川監督は「今度はスクールの子どもたちを連れてきたい」と言った。釜石遠征では、選手たちも慰霊施設「いのちをつなぐ未来館」を訪問し、宿泊先の「浜べの料理宿・宝来館」では津波に飲まれながら生還した岩崎女将から震災当時の話を聞き、防災の教訓を学んでいた。静岡は南海トラフの地震・津波の危険性を抱えている。静岡の子どもたちに、ラグビーと防災、両方で交流する機会を持たせ、トップチームの選手たちと両方の試合ができたらどんなに素晴らしいだろう――その構想は、2年たって実現した(昨年はトップチームの試合が中止となり、ラグビースクールの中学生だけが時期をずらして遠征した)。
それはブルーレヴズとして初めての釜石遠征であり、静岡ブルーレヴズラグビースクールの中学生チームと一緒の遠征となった。子どもたちは宝来館で女将の話を聞き、崖をよじ登って避難した実際の避難路を上り、津波の高さを体感した。素手ではとても上れないような崖には、あらかじめ津波に備えて避難路が作ってあったことを知り、普段からの備えの大切さを痛感した。実際の場所を訪れてこそ理解できる、重く貴重な学びだった。
「静岡も、いつ同じような地震、津波に襲われるか分からない。今回、この防災交流で学んだことを、子どもたちは静岡に帰ったら親御さんや学校の友達に伝えて、防災意識を広めてくれたらいいと思う」(堀川HC)
貴重な学びを得た子どもたちは、芝の上でも躍動した。昨年はブルーレヴズラグビースクールが下級生、釜石が上級生中心だったこともあってか、釜石が圧勝したが、今回はその雪辱。ブルーレヴズラグビースクールの子どもたちが芝の上を思う存分、自由闊達に走り回った。ピッチの中でもベンチからも、声もよく出ていた。勝ち負けも点数も二の次だけれど、日頃の練習の成果を、この素晴らしいピッチの上で発揮することが出来て、ブルーレヴズラグビースクールの選手たちはみんな幸せだったと思う。青いジャージーは本当にカッコよかった!
そして始まったのがメインゲームのトップチーム対戦。この試合では、両チームのピッチへの入場時に粋な計らいがあった。入場する選手たちを迎えたのはたくさんの大漁旗。それは新日鉄釜石がかつて日本選手権7連覇を飾った頃からのシンボルであり、ヤマハ発動機ジュビロでも、そして、昨季で歴史にピリオドを打った宗像サニックスブルーズでも応援に使われていたものだった(五郎丸さんは「2011年に釜石へ遠征したことから、ヤマハでも大漁旗を振って応援する文化が根付いたんです」と教えてくれた。「最初は『(三村)勇飛丸』の名前が漁船名(〇〇丸)のようだ、というところからだったんです。『五郎丸』と思ってる人が多いけど」と)。
3チームを応援する大漁旗がはためく中を、両チームの選手たちが入場していく。釜石には宗像から移籍した選手もたくさん加入していた。宗像は解散してしまったけれど、関東や関西などの大都市圏から離れた場所で、地域に密着して活動している点では静岡も釜石も同じ。地方のチーム同士のつながりが感じられる、胸が熱くなる光景だった。<続>
後編はこちら>>> 大友信彦観戦記 9/11 vs.釜石シーウェイブスRFC ~歴史ある釜石遠征~【後編】
後編ではトップチームの試合戦況や終了後の選手コメントなどをお伝えします。
大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。