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共同キャプテン奥村翔の今のキモチ【インタビュー】

Text by 大友信彦(静岡ブルーレヴズオフィシャルライター)
Photo by 静岡ブルーレヴズ /谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)

2月14日、火曜日。静岡ブルーレヴズは第8節のコベルコ神戸スティーラーズ戦に向けた練習をスタートさせた。
週末は試合のないBYE。チームも完全オフを取った。
「シーズンに入ると、心も体も頭も休めるタイミングがなかなかないですからね。中には個人練でグラウンドに出た人もいたみたいですが、家族と旅行した人もいたようです」
ブルーレヴスの共同キャプテン、奥村翔は笑顔をみせた。
「僕はイチゴ狩りに行きました。掛川に、いつもイチゴをくださるイチゴ農家の方がいらして、一度イチゴ狩りに行きたかったんです。でもいっぱいで予約が取れなくて、違うところへ、磐田のキャンプ場にある空中イチゴ農園に行ったんですが、めちゃめちゃ美味しかったです!」

OFF明けのトレーニング後。OFFどんなことをしていたかを話していたのか?

今季のリーグワンは昨年12月17-18日に開幕節が行われ、リーグ戦最終第16節は4月21~23日。その間、試合のない週末(BYE)は2-3節の間、7-8節の間、そして13―14節の間の3回だけだ。半年近く激戦が続くリーグ戦の間に3度しかないオフの週末。貴重なリフレッシュ時間だった。
それも、連敗を脱出し、連勝して迎えたオフだっただけに、休みの味は格別だっただろう。
「はい。気持ちよく休めました。ホント、この2勝は大きかったと思います」
奥村は屈託なく笑った。
若き共同キャプテンへのシーズン序盤戦振り返りインタビューは、そんなやりとりから始まった。

――ちょっと遡りますが、今シーズン共同キャプテンに就任した流れを聞かせていただけますか。
「7月にチームが始動する2週間ほど前でした。堀川HCに呼ばれて『今年キャプテンをやらないか』と言われたんです。いきなりでした(笑)」

夏のトレーニング時

――そのときはどう答えたのですか。
「そんな、すぐに答えを出せるわけもなく……。まだ静岡に来て2年目だったし、自分自身もまだ不安だったし、チームも結果を出せていない。そんなときに自分がキャプテンをやっていいのかどうか、迷いました。それともうひとつは、ちょうどNDS(ナショナル・デベロップメントスコッド=日本代表の予備軍的な位置づけ)の合宿に呼んでいただいたりして、自分自身、今シーズンは日本代表を目指して自分のスキルを伸ばすことにフォーカスしようと決めた矢先だったこともあります。
結局、7月末の菅平合宿に行くタイミングで『このチームで日本一になりたい。リーダーをやることで人として成長していけば、日本代表を目指せるんじゃないか』と考えて、受けさせていただくことにしました」

――キャプテンに就任することについてはポジティブに切り替わったのですか?
「いやあ……正直、なかなか前向きにはなれませんでした(笑)」

――前キャプテンの大戸さんなど先輩方には相談されたのですか。
「はい。大戸さん、日野さん、矢富さん、三村さんとかに相談したのですが、みなさん口を揃えて仰ったのが『お前が気負って思ってるほど大変じゃないよ、みんなサポートしてくれるよ』ということでした。それで、ちょっとポジティブになれました」

――歴代のリーダーのみなさん全員に?
「はい。一通り、みなさんに聞きました(笑)。やっぱり、歴代のみなさんがどう考えているのか気になりましたので」

――これまでのキャプテン経験はありましたか?
「中学と高校ではキャプテンでした。大学ではバイス(副将)でした。自分はみんなの前に立ってしゃべるのはあまり得意じゃないので、どちらかというと愚直に身体を張ってプレーをして、時々バシッと一言だけ言うスタイルでした。それが社会人で通じるかは正直不安がありました。

――そんな不安を抱えていたところからポジティブになれたきっかけになった出来事や言葉は何かありましたか?
「印象的な言葉は『若手の社員選手で試合に出ているくらい実力はあるし、お前が考えて言いたいことがあれば、言えばみんな聞いてくれるから』と言っていただいたことで、背中を押してもらえた気がします。確か、大戸さんの言葉だったと思います。そうして、菅平合宿のときに堀川HCに『やらせてください』とお答えしました」

菅平キャンプでのトレーニング

――クワッガとの共同主将になったのはどういう経緯だったのでしょうか。
「僕も聞けていないんです(笑)。ただ、大戸さんがキャプテンを退くとなったとき、次のリーダーに相応しいのがクワッガだろうということは誰でも分かりますよね。堀川さんからは『クワッガとの共同キャプテンだから。シーズンに入ったらクワッガにゲームキャプテンをやってもらう。でも、クワッガが合流できるのは11月くらいだし、それまでチームのカルチャーをレベルアップさせるのはお前の役目だぞ』と言われました」

――共同主将という形はどう受け止めましたか。
「もう、僕にとっては頼もしいだけです。南アフリカで培ってきたリーダーシップを彼から学べるのは自分が成長するためにもすごくいいことだと思いました」

圧倒的なハードワークを魅せることでチームを成長させてくれる

――実際に、これまで共同キャプテンとしてクワッガから学んだことはどんなことがありましたか?
「彼が言うのは『リーダーは自分の姿をチームの全員に見せなければいけない。試合では誰よりもハードワークする。言葉よりもプレーが大切だ』と行っていました。実際に誰よりもハードワークするクワッガだからこそ言える言葉なんだろうなと思いました」



――クワッガが合流するまでのプレシーズンはどんな手応えがありましたか。
「去年と今年のチームで大きく違ったところは、チームの中の競争心が激しくなったことです。チームメート同士で競争しあう、良い文化ができてきた。これはブリン・ホールが良い効果を持ち込んでくれたと思います」

――ブリンは具体的にどんな言葉や行動でチームに影響を与えているのでしょう。
「練習から激しい言葉を出してくれます。ユニット練習でも『お前は試合に出たくないのか?』と選手を叱咤したり、『1人1人が戦うことでチームは強くなるんだ』とか、言葉に出して言ってくれるんです。みんな分かっているはずのことだし、堀川HCやスタッフからいつも聞かれていることなんですが、選手の間からそういう言葉は今まであまり出ていなかった。

クワッガ同様ワールドクラスのパフォーマンスでチームを成長させてくれるブリン・ホール

それはある意味、ヤマハ以来のチームの文化を反映していたのかもしれません。ヤマハは清宮さんが監督をしていた頃から戦い方を決めておいて、その通りにゲームを進める傾向が強くて、選手自身が発案することはあまりなく、コーチの言うことに従いがちだったと聞きました。その点、今シーズンは、選手自身が場面場面で考えて、自分で選択する力をつけるようにコーチングスタッフも仕向けていると感じます。去年はそんなになかったけど、今年は目に見えて変化を感じます」


――決められたサイン、ムーブも多かったでしょうね。
「僕は入団したとき、チームに合流したのが遅めだったんです。3月7日くらいだったんですが、来てみたら覚えなきゃいけないサインがすごく多くて、覚えるのがすごく大変だったことを覚えています。大学の時とは用語もいろいろ違ったし。同期でも先にチームに合流していたHO山下憲太なんか、早く来ていた分言葉も覚えていて、やばい、早く追いつかなきゃ…と思いました」

――奥村さんにはルーキー時代から『ポスト五郎丸』という肩書きがついて回りましたが、自分ではどんな意識だったのですか?
「ヤマハのラグビー自体、五郎丸さんのキックで成り立っていた感じでしたよね。スクラムでペナルティを取って、そこから五郎丸さんのキックで点を取る。相手にとっては本当に嫌な存在だったと思います」

――その五郎丸さんの後継者と言われることはどんな感覚でしたか?
「僕自身、トップリーグの中でもトップ5のチームでやりたいと思っていたのですが、ヤマハのラグビースタイルに惹かれたことと、五郎丸さんがもうすぐ引退するから、その後釜として期待している、と誘われたこともあって、それはチャンスかなと思いました」

――結果、奥村さんたちが3月に合流して、その年の4月で五郎丸さんは引退してしまいました。
「そうなんです。もっともっと教えて欲しかったんですが…。
例えばユニットの練習をしていても、ゴローさんが思ったレベルに達していないときとかは厳しく指摘されて、自分でスタンダードを示してくれる、そういう存在でした。注意されながら『あの五郎丸さんと一緒にラグビーしているんだ…』と感じてました(笑)。第一印象は…怖かったです。いや、優しかった。めちゃめちゃ優しかったです」

――結果、奥村選手が五郎丸さんにかわって15番をつけたヤマハでのデビュー戦が、スタンドで見ていた五郎丸さんの現役ラストゲームになりました。
「すごく重みのある試合で、重みのあるジャージーだなと思いましたが、出る以上は思い切りやろうという気持ちでした。まあ、その試合でイエローカードを出されてしまったんですが…でも、未熟な部分もあったけど、通用する部分もあるなと感じた初戦でした」

――ところで奥村選手はヤマハ発動機の社員選手ですよね。職場はどんな部署なのですか?
「SV開発部のSP設計という、スポーツバイクを設計する部署です。この部署は初めてラグビー部の選手を取ったらしいんです。部署にとってもチャレンジな採用だったようです(笑)」

――もともとバイクには興味があったのですか?走り屋だったとか?
「全然違います(笑)。免許も持ってないです。高校は伏見工ですが、廊下をバイクで走ったりはしてません(笑)。
ただ、高校のときに工業デザインの授業があって、3DのCADを使って製図をしたりしたことがあると、面接で言ったことはありましたね、いま思い出しました」

――では、ヤマハのスポーツバイク、GPマシンの設計に関わっているわけですね。
「はい。まあ、シーズン中はブルーレヴズでの活動もあるので、プロジェクトにじっくり関わるのは難しいのですが…でも職場では毎日バイクを見て過ごしてますし、情報は常に入ってくるので、町中でもバイクを見ると『アレは新しいモデルだな…』とか観察するようになりました」

――ヤマハスタジアムでの入場時、マシンの音を聞きながらピッチへ走り出すときの気分は格別ですね。
「そうですね、うれしいです」

いつか自分が手掛けたマシンのエンジン音で入場する、なんてこともあるのだろうか

――ヤマハスタジアムでは会場の外のイベントスペースにもヤマハのGPマシンが展示してあります。いずれ、奥村選手も設計にちょっと携わったマシンが置かれる日が楽しみです。
「そうなった日はぜひ注目してください!」

今シーズンの開幕戦を熱く盛り上げてくれた世界最高峰MotoGPのマシン“YZR-M1”

――今季のチームのことに戻ります。開幕からなかなか勝てない期間が長く続いて、しかも奥村さんはケガで戦列を離れてしまいました。やはり、難しい時間だったのでしょうか。
「そうですね。最初のトヨタヴェルブリッツ戦は5点差、埼玉ワイルドナイツ戦は1点差の逆転負けだったし、結果が出ないことの苦しみはありました。ただ、僕たちが話していたのは『自分たちがやってきたことは間違っていない。自分たちのやってきたこと、スタイルを信じて、勝つまでやり続けることだ。ということです』

――結果が出ないときはその原因を探したくなるものです。
「もちろん、勝てない原因は何かを確認することも大切なのですが、そのときは勝てない責任を誰かに押しつけたいような空気があって、そうじゃない、自分たちが目を向けるべきところは、自分たちが成長すること、やるべきことをやりぬくことに目を向けようということをみんなで話しました」

1本のキックにかける想い。やるべきことに集中する

――しかしそのタイミングでケガで欠場が続きました。
「左足の甲を骨折していたんです。開幕のトヨタ戦で相手に蹴られたというか、足がぶつかって、痛いな…と思ったけど、ラグビーに痛みはつきものなので、そのまま試合をして、次のワイルドナイツ戦もそのまま出たんですが、ちょっと走れないくらい痛みが出てしまって。レントゲンを撮ってもらったら骨が折れてました。そのときお医者さんには『3週間か1ヵ月かかるよ』と言われたのですが、3週間で復帰できました」

――自分がプレーできない間はどのようなことをしていたのですか。
「ブルーレヴズではノンメンバーを『マックス』と呼んでいるのですが、いつもマックスのメンバーがやってくれる分析などの作業を率先してやりました。その役目をすることで、メンバーが試合に勝つことは、ノンメンバーにとっても努力が報われることなんだなと知ることができました」

リハビリ時はよく三村勇飛丸とジョギングをしていた

――結果的に、奥村主将が先発に復帰した東葛戦からチームは2連勝していますが、一緒に『マックス』で修業をしていた選手もけっこう一緒に試合に出ていますね。
「そうですね、SOの清原祥さんもそうだし、FBの山口楓斗もそうですね」

――その山口選手は、当初は奥村さんがつけていた背番号15をつけてFBに入り、奥村さんはWTBに回っています。
「僕自身は、ポジションがどこになっても、試合に出してもらえるのであれば嬉しいです。それは自分の実力が買われているということですから。楓斗は自信を持って走れるのが強みの選手だし、ハイボールキャッチやカウンターアタックでもチームに勢いを出して、レヴズに新しい風を吹かせてくれます。頼もしいです」

若いパワー・スタミナ・スピードを活かし続けている山口楓斗

――奥村さん自身はFBで出たい気持ちはあるのですか?
「もちろんFBはやり慣れているところはあります。外で待つよりも、真ん中の位置からどちらサイドへもボールをもらいに行くことで、自分の強みを出せる。でも、実際はWTBで出ても役目は変わらないと思っています。両WTBとFBの3人はみな同じような役割で、誰かが上がれば残りの2人が後ろをカバーする。ただ、WTBの背番号をつけて出るときは、トライをしっかり取り切らなきゃな、という意識は強くなります。特に反対側のWTBのマロ・ツイタマはトライを量産しますから。僕も頑張らないと(笑)」

――奥村さんにはもうひとつ、ゴールキッカーという役目もあります。ここ2試合は蹴っていませんでしたが…。
「はい。次の試合では僕が蹴ると思います。やはり、僕がメンバーに選んでもらえているのもその強みがあるからだと思うし、キックに関してはプライドを持って、毎日の練習に取り組んでいます」

――毎日のキック練習はどのくらい蹴り込んでいるのですか。
「本数は決めていなくて、自分で納得するまでです。これは大学2年くらいから続けていることです。その頃、ジュニア選手権だったと思うんですが、けっこうキックを外してしまって、岩出監督から『そんなんじゃキックを蹴る資格がない』と怒られたんです。『ゲームの最初の3本は絶対に決めろ』と言われていたのに、それができなくて。それ以来、練習ではいつも『このキックが入れば逆転勝ち、入らなければ負け』という場面をイメージして自分にプレッシャーをかけて、平常心で、同じリズムで、同じフォームで蹴れるまで、納得するまで蹴るのを日課にしています。静岡に来てからはゴローさんにもメンタル面などを教えていただいてます」

グラウンドを一番最後に去るのは少ないことではない。

――さて、BYEあけ、リーグ戦も第8節、折り返し点を迎えます。ここからの抱負を聞かせてください。
「いまブルーレヴズは8位ですが勝点は14。プレーオフに出られる4位の横浜イーグルスとは8点差ですから、まだまだ十分に追いつける、優勝を目指せる位置にいるので、まず目の前の神戸(19日・神戸ユニバー競技場)戦に照準をあわせてぶつかります。きょう(14日)の練習も、BYEあけでみんなリフレッシュして、身体が軽そうでしたし、ここからまた自分たちのやることを詰めて、一戦一戦戦っていこうと思います」

――ありがとうございました。リーグワン中盤戦でのブルーレヴズの躍進、奥村主将の活躍を楽しみにしております!

キックティー(キックの際にボールを置く道具)を大切に抱える。キックにも、全身全霊の想いを乗せる!

大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。

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