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家村健太「経験したこと、うまくいかなかったことは全部伸びしろ」【インタビュー】

Text by 大友信彦(静岡ブルーレヴズオフィシャルライター)
Photo by 静岡ブルーレヴズ /谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)

2023年のリーグワンでは、新しいルールが施行された。それは「アーリーエントリー」。
現在のリーグワンは、年度をまたぐスパンで行われている。チームの母体企業には4月になれば高校・大学を卒業した新入社員選手が新たに入社する。プロ選手も登録される。そういう選手を、どうせ加入するならもっと早く試合に出るチャンスを与えて日本ラグビー全体のレベルアップを図ろう、という狙いで導入された。
 
そして、その新規定を最も活用したのが静岡ブルーレヴズだった。第8節のコベルコ神戸スティーラーズ戦(2月19日)で、早大から加入したWTB槇瑛人がリザーブから途中出場でデビュー。続く第9節の東京サンゴリアス戦(2月25日)では槇と

SO家村健太(いえむらけんた)

の2人が揃って先発した。以後、槇は1試合を欠場、1試合はリザーブに回ったが、家村は最終第16節まで背番号10で先発し続けた。ブルーレヴズが今季あげた5勝のうち3勝は、家村が背番号10に定着した後半8試合にあげた。そこには無敵を誇った埼玉ワイルドナイツを破った熊谷の一戦も含まれる。
大田尾竜彦・現早大監督というレジェンドが退いたあと、伝統の10番を託せる――そう思わせる男が現れた。シーズンの戦いを終えた家村に、ファーストシーズンを振り返ってもらうと同時に、その素顔を語ってもらった。

2/25東京サントリーサンゴリアス戦。自身のキックで、リーグワンプレーヤーとしてのスタートを切った瞬間

――最初のシーズン、アーリーエントリーからの8試合フル出場お疲れ様でした。レヴニスタのみなさんは、家村選手の素顔を知りたいと思います。最初に、家村選手が静岡ブルーレヴズに来た理由を聞かせてください。

「このチームでやりたいと思った一番の理由は、チームの雰囲気ですね。練習を見学に来て、試合を見て、チームの一体感を感じたし、このチームでラグビーをしたら楽しいだろうなと思った。これから伸びていく、日本一を目指していくチームというところに魅力を感じました」

――家村選手は流経大柏高では3年夏のセブンズでチーム初の全国制覇を達成して、大学はまだ全国優勝の経験のない京産大へ進みました。関東から関西へ、しかも猛練習で知られる京産大へ行く選手は珍しいですね。

「自分にとってはいくつかの要素があったんです。監督だった伊藤鐘史さんが、流経大柏の相亮太監督とリコー時代に一緒で、その縁で誘っていただいて、リーダーとしてチームを引っ張って、日本一を取るという夢をイメージできたこと。早い段階から試合に出るチャンスがあるかなと思ったこと。そして、元木由記雄さんというレジェンドがコーチにいらしたことですね。そんないろんな要素を含めて、京産大に決めました。相監督も『鐘史になら任せられる』と言ってくださいました」

――元木さんにはどんなことを教わりましたか?

「鍛えられた、という言葉に尽きます。特に1年生のときは大変でした。練習がとにかくハードで、身体をあてる練習が多かった。狭いスペースでコンタクトしながら前に出るメニューがキツくて、それが永遠みたいに続く(笑)。こっちは1年生だし、相手はデカい先輩ばかりだし。負けたくないからガツガツ向かっていったけど、キツかったです。
特に元木さんがダミーを持ってくださるときは、フィジカル負けしないように全力で行かないといけないんですよ……今でも負けそうですけど(笑)。たまに、元木さんにスイッチが入って、タックルや当たりのお手本を見せてくれることがあるんですが、本当に『ヤバい!』と声が出ちゃうくらいスゴいんです。スピードも音もスゴいし、元木さんの顔つきも変わる。あのお手本をずっと身近で見ていたことは今に繋がっているし、そこで練習を重ねたことは自信になっています」

――京産大の練習のキツさはラグビー界でも有名ですからね。

「京産大の練習はBKもキツいけど、FWはもっとキツいんです。全体練習が終わっても、FWにはユニット練習でやることが多い。そのあとでスクラムの練習があって、それが終わってからフロントローは『タイヤ押し』がある。1年のとき、同期のフロントローが泣きながらタイヤを押していた姿は忘れられません。そうやって作り上げた強いスクラムには本当に助けられたし、あの頑張っていた姿を見ていたからチーム愛もより強くなりました」

――そして静岡ブルーレヴズへ来るのですが、ブルーレヴズには京産大の先輩はあまりいませんよね。

「ブルーレヴズになるよりもずっと前、トップリーグが始まった頃に、奥亙さんという方がいらしたと聞いています。でも僕の場合、流経大柏から京産大へ行ったときも先輩はほぼ誰もいませんでしたから(笑)。知ってる人がいないところへ行っても、最初は多少苦労するかもしれないけど、なんとかなる。それよりも自分の直感で、やりたいと思ったところへ行くのが良いと思いました」

――練習見学にはいつ頃来たのですか?

「大学3年の終わりから4年の初め頃だったと思います。コロナもあって実際に練習に参加はしなかったのですが、練習を見て、直感的に『良いチームだな、楽しそうだな』と思いました。試合も見ました。昨シーズンですが、IAIスタジアム日本平の埼玉ワイルドナイツ戦でした。モトクロスの演出もあったりして会場も盛り上がっていたし、ホントに地域に愛されているチームだな、応援したくなるチームってこういうことなんだなと感じました。京都へ帰るときには、このチームでやったら楽しそうだな、という気持ちになっていましたね」

――そして実際にチームに合流したのは、大学選手権が終わってからですね。

「大学のシーズンは1月2日の準決勝で早大に負けて終わりました。そのあと、集合するのは1月末と聞いていたので、まずは心のリフレッシュが大事だと思い、大学の同期と福岡に旅行して、そのあと高校の同期と沖縄に旅行しました。でもシーズンは続いていたし、合流した後のことも気になるし、ブルーレヴズの試合は旅行中もクルマで移動するときなんか、オンデマンド放送をスマホで見たりしてチェックしていました」

――1月末にチームに合流したときのコンディションはいかがでしたか?

「準決勝の最後に足首を捻挫してしまったので、最初は『しばらくは動けないな』と思ったのですが、実際に練習に合流できるとなったら参加しました(笑)。テーピングをして、痛みはあったけど練習には参加して、練習後はメディカルスタッフにしっかり見ていただいていました」

 ――今年の新人はアーリーエントリーが導入されて初めての学年ですが、この制度はどう受け止めていましたか。

「プラスに受け止めました。早い段階でチャンスがあるかもということは、練習に参加するにもモチベーションが上がりました。『オフがない』と心配する人もいたけど、僕自身は嬉しかった」

――実際に、ブルーレヴズの中に入ってみた感想はいかがでしたか?

「想像通り、良いチームだなと思いました。ミーティングに参加してもそう思ったし、ちょっとした空き時間でも、先輩たちが気さくに声をかけてくれて、親しみやすい。1月末に寮に入ったのですが、1年目でも気を遣わずに過ごせる。居心地がよかったですね。新人はみんな、クルマを持っていないのですが、先輩たちが『乗るか?』『誰か乗せてくれる?』と気安く声をかけてくれて、先輩方との距離もすぐ縮めることができた気がします」

先輩とのコミュニケーションがうまく行っているのがわかるひとコマ

――アーリーエントリーのデビューは槇選手が1週先でした。

「誰が一番先に出るか、ということは別に意識していなかったのですが、実際に槇が先にメンバー入りしたときは正直悔しさとうらやましさがありましたね。実際、練習に合流してからも槇は最初からパフォーマンスが高かったし『槇は先に出るかな…』と薄々感じていたのですが、実際にそうなると『すげえなあ』という気持ちと同時に悔しい、自分も早く出たいという気持ちが強くなった。同時に、ホントにチャンスはあるんだなと実感しました」

――そして、翌週には家村選手も先発でデビューします。

「次の週の練習が始まる前に、堀川HCから電話をいただいて、次は先発で行くからなと聞かせていただいたんです。それを聞いた瞬間は『来た!』『よっしゃ!』と盛り上がりました。でも、ふと冷静になってみたら急に不安というか緊張してきた。リーグワンで先発するんだぞ、サンゴリアス戦だぞと。でも、緊張するのも当たり前だし、準備をやりきって試合に臨もうと切り替えました」

始めてのジャージプレゼンテーションでしっかりと「絶好調!!」を叫んだ

――実際の試合はどうでしたか?

「正直、試合が始まるまではめちゃめちゃ緊張していたんですが、始まってみたらスーッと緊張が抜けて、いつも通りに試合ができました。ただ、なかなか勝てなかった。最初の3試合が負け→引き分け→負けと続いて、ギリギリの試合に勝てないのは自分のゲームコントロールが悪かったんじゃないかとネガティブなスパイラルに入りかけました」

デビュー初戦から悔しい試合が続いた

――それはどのように克服したのですか?

「試合をしっかり映像で見返して、一つ一つの場面について、他にどうすることができたか、もっとこうした方がよかったんじゃないか……ということをじっくり考えました。まずオフの日に自分でレビューして、次の日に堀川HCと1対1の面談をしながら試合を一通り振り返って、そのあと要所要所について話し合いました。堀川さんだけでなく、SHのブリン・ホールも一緒に映像を見てくれました。ブリンは結構、はっきりとダメ出ししてくるんです」

――どんなふうに?

「試合中も、僕が出したサインをブリンに思い切り否定されたことがシーズン中、2回くらいあったんです。でも、じゃあどうするのがいいかというのをブリンから聞いて、理由も聞くと、ああそうか、なるほどな……となるんです。すごく勉強になりました、でも何試合か重ねているうちにブリンは『お前が決めろ』と言ってくるようになりました。10番にはそれだけの責任があるんだなと改めて実感します。でも、ブリンの意見も聞いてみたいな、と思うことはあります(笑)」

ワールドクラスのブリン・ホールから大きなサポートを受け、ぐんぐん成長していく

――そして第15節、ワイルドナイツを破ります。

「あの試合に向けた週の練習はずっと雰囲気が良かったんです。練習中ミスは起きるけど、それはメンバー外の『MAX』チームがすごくプレッシャーをかけてくれるからで、むしろ『このプレッシャーの中で練習していれば、本番では平気だ』という気持ちになれた。

MAXメンバーの熱いサポートで最高の準備ができたXV

実際の試合では、みんなすごかったですね。全員がスゴかった。でもあえて名前をあげるなら大戸さんですね。試合にずっと出続けている理由がよく分かった。めちゃくちゃにすごい、強い、目立つプレーをするタイプじゃないけど要所要所で、これ以上ないくらい的確なプレーを選択して、それを正確にやりきる。本当にすごい選手です。BKではヴィリ(タヒトゥア)ですね。とにかくボールを渡せばなんとかしてくれる。安心感がものすごいです」

大戸裕矢、ヴィリアミ・タヒトゥアの存在は、この試合に限らず大きな支えとなっていた

――ワイルドナイツ戦は、素晴らしいキックを連発して勝利に貢献しましたが、試合を終わらせるキックを蹴り出したあともニコリともしないクールな物腰が話題になりました。

「いろんな人に言われましたが(笑)、あえて笑わなかったんじゃなく、自分自身の出来が良くなかったからあまり喜べなかったんです。ひとつふたつの良いキックはあったけど、80分を通して見ると自分の出来はよくなかった。せっかくワイルドナイツを相手に、たくさんの人に見てもらえる、注目度の高い試合なんだから、もっと自分の色を出したかった、良いプレーをしたかった、という思いが強かったんです」

「もっとできた」良い意味で悔しさを感じることができた埼玉WK戦

――自身の1年目のシーズンを採点すると、何点くらいつけられますか?

「んー……どうですかね。60点くらいつけてもいいかな? 試合に出続けることができたのは良かったと思います。だけど、ルーキーイヤーだからとか、アーリーエントリーとしてはとか、そういうのは関係ない。試合に出る以上はルーキーでもベテランでも同じ立場ですから。
ただ、満足感は全然ないけれど、今年経験したこと、うまくいかなかったことは全部伸びしろだと思っています」

――オフに入りました。チームは7月に来季に向け始動する予定だそうですが、それまでに個人的に伸ばしておきたいところはありますか?

「個人的に挑戦したいと思っているのはゴールキックです。リーグワンというトップレベルのリーグで10番を張っている選手はどこのチームでもゴールキックを蹴っている人が多い。ブルーレヴズも、ヤマハ発動機時代は五郎丸さんのキックで勝利を積み重ねてきたと聞きますし、自分もそういうキックでチームに貢献できる選手になりたい。そうすれば10番としての信頼もより得られると思います」

実は一度、チーム合流直後のトレーニングマッチでキッカーを務めたが、足の負傷もありその後の出番はなかった。

――高校と大学の間は蹴っていなかったのですか?

「チームに上手い選手がいたので、なんとなく最初から任せて、僕はタッチキックとか、プレースじゃないキックの担当でした。プレースキックはセンスがないと思っていたんです(笑)。でも京産大時代は、いまの監督の廣瀬佳司さんが『数を蹴れ』『数を蹴るしかうまくなる方法はない』と言われていたので、僕も数を蹴り込めば上手くなると思う。じっくり取り組みたいと思っています」

――試合で家村選手のゴールキックを見られるのが楽しみです。

「京産大の同期のSOには大学時代によく『蹴らないの?』と聞かれていたので、驚かせてやりたいです。1年や2年で上手くなるわけじゃないと思うけど『へえ、うまくなったじゃん』と言わせたいですね。『オレが教えたんだ』と言われそうですが、それはそれでいいですから(笑)」

――楽しみにしています。充実したオフをお過ごしください!

大きな期待が膨らんだ今シーズン。来シーズンの更なる活躍に大注目です!

<了>


大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。

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