三村勇飛丸「うまくいかない時も、左右されずに今自分ができることをやり続ける」【インタビュー】
Text by 大友信彦(静岡ブルーレヴズオフィシャルライター)
Photo by 静岡ブルーレヴズ /谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)
5月18日、ブルーレヴズに来季加入するチャールズ・ピウタウ選手の入団会見が行われた。じれったい戦いを続けたブルーレヴズが飛躍するために、オールブラックスで学び、ヨーロッパで身につけた豊富な経験をもたらしてくれるだろう。まだまだ先の話だが、2023-2024シーズンへの期待感は高まる。
その一方で、ひっそりとスパイクを脱いだ選手たちがいる。
4月28日、2022-2023シーズンでブルーレヴズを退団する10選手が発表された。その中には、ブルーレヴズの前身ヤマハ発動機ジュビロが2014年度に日本選手権初優勝を飾ったときのキャプテン、
三村勇飛丸(みむら ゆうひまる)
選手の名前があった。
去りゆく仲間たちの代表として、三村さんの特別インタビューをお届けする。
――ヤマハ発動機ジュビロ時代を含め、まる12年間の選手生活、お疲れ様でした。今回、退団を決めた経緯を聞かせていただけますか?
「僕、引退というよりクビなんですよ、戦力外(笑)。まあ、9年目からは毎年大けがが続いてしまって。現役は続けたいという思いと、明日やめることになってもいいという思いと、両方の思いを持って過ごしていました。だから自分から辞める考えはなかったんです。家族も続けて欲しいと言ってくれていましたし」
――第14節のブレイブルーパス戦が行われたエコパでは、五郎丸さんプロデュースのゼクシイとのタイアップ企画で、奥様とトークショーに出演されていましたね。奥様が三村選手の大ファンだということがよく伝わってきました。
「あれ、見てましたか(笑)。ちょっと恥ずかしいですが。あのときはまだ現役を続けるつもりでした。とはいっても、いつもやれることはやりきってきたし、いつ辞めることになってもいいというスタンスでやってきましたからね」
――ここ数年は大きなケガが続いてしまったのですね。
「最初はワールドカップ日本大会のあと、コロナで打ち切りになった2020年シーズンでした。1月の開幕に向けて調整に入っていたプレシーズン最後のサニックス戦で右のハムストリングスを断裂してしまいました。これでシーズンアウトが決まってしまった。
次がトップリーグ最後になった2021年、開幕がコロナで流れた年ですが、このときは開幕前に持病のぜんそくの発作が出てしまって、1ヵ月くらいラグビーできなくなってしまったんです。そこから復帰して、4戦目のキヤノン戦に出場したのですが、そこで首のヘルニアが出て、また1ヵ月くらい入院して、立てないくらいの状態が続きました。正直、ここで辞めようかな、という思いも頭をよぎりましたが、そのころ娘が生まれたばかりで、家族に『頑張って欲しい』と言われたし、僕も『娘の記憶に残るくらいまではやりたいな』と思ったし。本当に、家族の応援が僕にとっては一番の力でした」
――そして静岡ブルーレヴズに生まれ変わったシーズンを迎えました。コロナで開幕からの3試合ができなかったシーズンですが、3週遅れで迎えた初戦から三村選手はリザーブで2試合に、3試合目の横浜イーグルスには先発で出場しました。
「やっと戻ってきた感じで、その次、柏のグリーンロケッツ東葛戦にはメンバーに入っていたんですが、練習で膝を痛めてメンバーを外れました。これ自体は大きなケガではなかったので、その3週後の埼玉ワイルドナイツ戦をターゲットにしてリハビリをして、順調に復帰したのですが、練習にフル復帰した最初の日に、タックルにいったときに相手の頭が直撃して、右腕が折れたんです。そのときはその日に手術しました。そして今シーズンのプレシーズンで復帰して、試合にも出場していましたが、その腕が開幕2週前にまた折れました」
――お話を聞いているだけで胸が痛みます。やっと、というタイミングでの大ケガにそれだけ見舞われたら、本当に心が折れそうです。
「実際、難しかったですよ。プレシーズンはキツいことをずっとやっていて、さあ開幕だ、というタイミングでのケガが続きましたからね。何のためにこの半年間キツい思いをしてきたんだ…という思いも何度も頭をかすめました。
その間、若手もいい試合をしていました。ただ、自分としてはポジション争いに負けた感覚はないんです。若手のプレーを見ていても『勝てないな』という感覚はない。年齢的に、役目は終わったのかなという思いもあったけれど、もうちょっと必死こいて練習する姿を見せるのも役目かなと」
――今シーズンは三村選手のトレードマークだった背番号7をつけて、社会人1年目の ジョーンズリチャード剛 選手がすばらしいタックルを連発しました。
「昔のお前を見てるみたいだなあ、といろんな人に言われました。新人らしくがむしゃらにタックルしていましたね。リチャは何か僕のことを頼りにしてくれて、何かあれば相談してきたり」
――どんな助言を求められたのですか?
「ちょっとした会話でしたけどね。リチャは開幕のころはメンバーに入っていなかったから『どうやったら出られるんですかね』と聞いてきた。やっぱり新人ならではの不安があったんだと思うけど、僕は去年の時点でリチャのタックルはチームで一番だとわかっていたから『ウチの7番はバランスも求められると思う。自分のプレーをレビューして、もしどこかに偏りがあったら全体を意識してみたらいいんじゃないかな』ということと『体づくりとか、今まで信じて続けてきた軸をぶらさず、どんな状況に置かれても腐るな』というようなことは伝えました。シーズンの後半には、ホントに言うことないな、と思うくらい良いプレーをしていましたね。それでも自分で気になることがあれば『どう思います?』と聞いてきた。自分で考えているから、聞きたいこともはっきりしているなと思いましたね」
――ヤマハ発動機ジュビロから静岡ブルーレヴズまで、在籍は12シーズンに なりました。その時間を振り返っていただけますか?
「そもそも僕は大学でラグビーを辞めるつもりだったので、普通に就活してました。でも当時はちょうど、リーマンショックの次の年で、就職が厳しかったんです。これは大学にもう1年残って就活した方がいいかなぁ? と迷っていた頃、草薙で春の早明戦があって、そのときヤマハに声をかけてもらったんです。当時のヤマハはちょうど強化縮小の直後だったし、不安な思いもありましたが、同期の名嘉(翔伍)も一緒に入ることになったことも後押しになりましたね」
――三村さんたちの入団した春に清宮克幸さんが監督に就任して、そこからチームの成績が上がっていきました。
「高校の時から大学ラグビーを見ていたので、清宮さんという方は知っていたものの、入団後に清宮さんがどんな指導をされてどんな選手を使うかはわからなかった。でも、身体能力が高いわけでもない、取り柄はタックルだけの僕が、ヤマハに来たら、自分の役割を必死にやることでチームは機能した。いろんな意味で15分の1の役割が明確でしたね。そうして日本選手権に優勝できたし、キャプテンも4シーズンやらせてもらったし、日本代表もサンウルブズも、いろんな経験をして成長させてもらえました。
そして最後の4年間は……それまでの8年間の倍くらい、16年くらいに長く感じましたね。でも、ラグビーのことだけに集中していられた。すごく幸せな12年間でした」
――今季は結局、出場ゼロでした。どういう思いでチームを見ていましたか?
「方向性は間違ってないと思います。いつも良い試合をしていた。ただ、波がありましたね。チームは着実に成長していたけれど、他のチームも成長していて、結果的に順位が変わっていなかった。ここは危機感を持たなきゃいけないと思います。僕から見ると、出場しているメンバーのFWもBKもスタッフも全員が同じイメージだったか気になっていました。突き抜けるにはそこが必要だと思うし、初めて再現性のあるものを作れる。でも、今季は『チームとしてどこで勝つのか』という大事な部分が人によって少しずれていたんじゃないかと思います。」
――ピッチにはどのように別れを告げたのですか?
「最終節のトヨタ戦の前日の練習試合に、最後の5分だけ出してもらいました。本当はプレーできる状態じゃなかったんです。前に右腕を骨折したときに入れたプレートのボルトが筋肉にあたって、手に力が入らない状態が続いていて、手術する予定でしたから。自分としては、練習試合でもいいから80分プレーできる状態で最後は引退したかったな、という気持ちがありますね。
でも実際は、5分だけでもメチャメチャキツかった(笑)。でも家族も見に来てくれたし、ラグビーしてる姿を見てもらおう、やろうという気持ちで」
――『娘さんの記憶に残るまでやりたい』という言葉は実現しましたね。
「上の子は8月で4歳になりますから、パパがラグビーをしていることは理解してくれたと思います。下の子は5ヵ月なので、まだ無理かな(笑)」
――12年間の現役生活で、いろいろな場面がありました。印象に残っている試合をあげていただけますか?
「日本一になった試合はもちろんですが、それと同じくらい毎シーズン優勝を絶たれた試合もよく覚えていますね。1年目は、8位からワイルドカードで勝ち上がって日本選手権に出て、最後は東芝に負けた。2年目も6位からワイルドカードで日本選手権に出たけれど、パナソニックに負けた。
3年目はキャプテンをやらせてもらったけど、最後の日本選手権の神戸戦には出られなかった。4年目に日本一になることができたけど、トップリーグの決勝ではパナソニックに負けた印象が強いです。
やっぱり、毎シーズン、引退される方がいるので、シーズン最後の試合で負けたときは『もう一緒にできないんだな』という思いがあって、よく覚えている。中でもよく覚えているのは2018年の準決勝、延長でサントリーに負けた試合ですね。最後の場面はベンチから見ていました」
――そのシーズンが清宮監督のラストシーズンになりました。
「清宮さんが辞めたとき、8年が終わったところで僕も辞めてもいいかな、と思っていましたが、『清宮さんがいなくなったから弱くなる』と言われるのをどうにか見返したいと思ったんです。次のシーズンも調子はよかったんですが、その矢先にハムストリングスの大けがをしてしまった。それが一番悔しい思い出ですね。
結果としてはそのあとの4年間はほとんど試合に出られなかった。でも、この4年間の経験はこれからの人生に役立つと思っています」
――この4年間で学んだことを、あえて言葉にすると。
「うまくいかないことの方が当たり前、ということですね。そこでいちいち一喜一憂しない。上手くいかない中でも左右されずに今自分ができることをやり続けることの大切さですね」
――三村さんのタックルを見られなくなるのはさみしいな、と思っているファンは多いと思います。
「タックルは怖くないですか? とよく聞かれましたが、怖いとか怖くないとかいう感覚はありませんでしたね。怖いかどうかじゃなくて、僕にとっては当たり前のプレーだった。ヴィリ-(タヒトゥア)やクワッガ(スミス)のようなボールキャリーが出来るわけじゃないし、自分に出来るのはそこ(タックル)しかない。裏方というか、他のみんなができないところを埋めるのが役割だと思っていたから、恐怖心とかはなかったですね。それが僕の生きる道でした」
――この後はどのようにラグビーと関わっていくのですか?
「今のところは何も決まっていません。それこそ、清宮さんから『いずれコーチをやるつもりで勉強しておけよ』と言われたこともあった。何年も前からチームに関わりたいと言ってきましたが叶わなかったので、いったんはチームを離れますが、勉強して、いつかこのチームに違う形で戻ってきて、勝負の現場に関わりたいな、と思っています」
――身体を酷使し続けた12年間、本当にお疲れ様でした。レヴニスタの皆さんも、三村さんのプレーを見続けることができて幸せだったと思います。まずはリフレッシュして、身体の疲れをとって、エネルギーを充電してください。ありがとうございました。
<了>
大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。