勝負の3シーズン目。河田和大のスクラムへの熱い想いとは。【インタビュー】
Text by 大友 信彦(静岡ブルーレヴズ オフィシャルライター)
Photograph by 静岡ブルーレヴズ、谷本結利
インタビュー:2022年11月21日
リーグワン2年目の開幕を控えた静岡ブルーレヴズには、注目を集める躍進プレーヤーが何人もいる。大学時代の有名選手はあまり多くない静岡ブルーレヴズだが、それだけにユニークなキャリアを積んできた選手や、既存の主要メディアではあまり登場していない、隠れた才能の宝庫でもある。
そんな一人が、昨季リーグワンにデビューするやブレイクしたPR河田和大選手だ。今夏は日本代表合宿にも練習生で参加。強力スクラムに加え、11月19日に行われた横浜キヤノンイーグルス戦ではWTBマロ・ツイタマのキック&チェイスに猛然とサポート。オフロードパスを受けると鮮やかなハンドリングでSOサム・グリーンにパスを送り、FL杉原立樹につなぐスリリングなトライをアシストした。
今回は、新時代のスクラムの旗手・河田選手の特別インタビューをお届けする。
(インタビュー収録:11月21日)
――まずは横浜イーグルス戦の鮮やかなトライアシストについて聞かせてください。ツイタマ選手のキックチェイスへの素早いサポートと鮮やかなパス。素晴らしいプレーでした。
「ありがとうございます。僕も、あんな場面はなかなかないです。トライを取りきるような選手じゃありませんから(笑)、うれしかったです。
マロが蹴ったときは、ごく普通のチェイスと思って、とりあえず走りました。そしたらバウンドがマロの方へ弾んで行って、マロがタックルされそうだったから呼んで、オフロードパスをもらって、走りきれるわけないんですぐサム(グリーン)にパスしました。あんな、バックス展開のトライに参加したのは初めてです」
――自分が投げたパスがトライに繋がったときはどんな気持ちでしたか?
「気持ちよかったです(笑)」
――もうひとつ、横浜イーグルス戦のスクラムについて聞かせて下さい。前半は何度かいいスクラムを組んで、トライの起点を作りました。
「そうですね、前半の40分は準備してきた良いスクラムが組めたと思います。相手の横浜さんもスクラムのヒットは強いというイメージを持っていたので、そこで負けずに逆に圧倒しようということでフォーカスして『一歩』を合い言葉にして、ヒットのあとの一歩で優位に立つことができていたと思います。
ただ、後半にはいってからジーン(イラウア)がイエローカードを受けて、7人スクラムになったときに対応できなくて、ペナルティーを取られたりしたので、そこは次戦以降に向けての反省点です」
――7人でスクラムを組むことを想定した練習はさすがにしていなかった?
「今日やりました(笑)。それまではやってませんでした。この前は、エイトのジーンがいなくなって、そのまま3-4で組んだんですが、ヒットのときに後ろのウエイトがあまり来なかった。今日の練習ではFLが1人エイトの位置に下がった3-3-1でまずヒットして、組んでからFLの位置に移動するという形でやってみました。やぱり、100㎏分のウエートがヒットの時にないとだいぶ違います。勉強になりました」
――スクラムの話は奥深いですが、そもそも河田選手がラグビーを始めたきっかけを教えて下さい。何歳から始めたのですか? それまでやっていたスポーツは?
「ラグビーを始めたのは16歳のときです。それまでは野球をやっていました。小学生の時から地元(埼玉県羽生市)のチームでやっていて、中学の時に熊谷市のシニアで硬式を始めて、最初は野球の推薦で栃木の白鷗大附属足利高校に進学しました。でも3ヵ月くらいで辞めて、そのまま学校も中退したのですが、そのときに、知り合いの方に誘われて始めてラグビーを観戦したんです。熊谷ラグビー場で、ヤマハ発動機ジュビロと東芝ブレイブルーパス(当時)の試合でした。ラグビーを見るのは初めてでしたが、人と人とがぶつかる音を初めて聞いて、衝撃を受けて『自分もラグビーをやってみたいな』と思ったのが始まりで、1年遅れで深谷高校に入りました」
――ちなみに、野球部をやめた理由は?
休みが全然なかったというか、毎日始発で学校へ行って、終電で帰ってくるような生活で、でも野球の練習もほとんどできなくて雑用ばかりで。その生活が嫌になって……という感じです」
――野球時代のポジションや選手としての特徴を教えてもらえますか。
「ポジションはサードでした。選手としては…自分の感覚では高1くらいのときが一番からだがキレていたと思います。野球部の練習で長距離を走ったりすると、たいてい3位以内に入っていました。サッカーとかバスケットとか器用さが必要な球技は得意じゃなかったけど、頑張るとか、力いっぱいやる系のスポーツは割と得意でした。
最初にラグビーを進めてくれた方が『こんな知り合いがいるよ』と紹介してくれたのが、佐野日大の監督をされていた藤掛三男さんで、藤掛さんも野球からラグビーに転向して、早大で活躍して日本代表にもなった……というお話を聞いて、よりラグビーをやりたい気持ちが強くなりました。そのあと、ご縁があって、深谷高に入りました」
――ポジションは最初からPRですか?
「高校の入学式の日に出した入部届には『FL、No8、CTB』と書いたんです。全部藤掛さんがやっていたポジションです(笑)。でも翌日、練習にいってみたらPRのところに自分の名前があって、それ以来ずっとPRです」
――ラグビーを始めたばかり、それもPR。最初はどんな練習をしていましたか?
「最初は『姿勢』ですね。グラウンドの端っこで、ひたすらスクラムを組む姿勢をする。首に重りをつけて首を鍛える練習もやりました。フィットネス合宿とかやっている頃はちょっと嫌になりかけたけど、試合に出してもらえるようになってからは楽しくなりました。練習試合でトライしたり、タックルで相手を倒したりするのが楽しかった」
――スクラムはどうでしたか?
「正直、高校時代はスクラムにこだわる気持ちはなかったですね。高校では1.5mしか押せないので、練習でもそんなに突き詰めなかった。それよりも、ラグビー自体が楽しかった」
――深谷高校では花園へは?
「2年と3年で花園へ行きました。1年のときは決勝で浦和に負けました。山沢京平(明治大-埼玉)は1歳下で、お兄さんの拓也さん(筑波大-埼玉)は入れ違いでした。スクラムにこだわりを持つようになったのは拓殖大に行ってからです。1年生のときの4年生に、具智元さん(ホンダ-神戸、日本代表PR)がいたんです。具さんはもう日本代表やサンウルブズに入っていて、チームに帰ってくるときはいつも疲労困憊な感じでしたが、スクラムのことに関してはいつも丁寧に教えてくれました」
――そしてトップリーグのヤマハ発動機に入ります。
「大学4年生になるころ、拓大の遠藤監督から『ヤマハのトライアウトを受けてみないか』と言われて、5月頃にヤマハの練習に参加させてもらいました。AD(アタック&ディフェンス)にも入れてもらったんですが、大学とはスピードがあまりに違うことに驚きました。でもスクラムは良い感じで組めたと思います。結局、そのあとで『もう1回来てくれ』と言われて練習に来て、そのあと内定をいただきました」
――そしてヤマハに入社したのは2020年ですね。コロナで何かと不自由な頃だったでしょう。
「一応、3月から磐田に来て寮に入ったのですが、周りとの接触が制限されていて、同じ寮にいる先輩たちともほとんど会話もできない、寮の部屋でテレワークをしてばかりというヘンな生活でした。
練習ができるようになったのは8月くらいからだったと思います。その頃でよく覚えているのは、スクラムコーチだった長谷川慎さんに言われた『スクラム練習で1本押されたら、試合に出るのは10日遅くなる』という言葉です。それを聞いてから、練習でも1本1本のスクラムを大事にするようになりました。ただ、1年目はコロナの影響で、Bチーム同士の練習マッチも少なくて、たまに試合があってもスクラムはノンコンテストだったり。手応えのない1年間でした」
――1年目は公式戦出場はゼロでしたが、2年目の昨季、リーグワン元年初戦でリザーブから途中出場でトップチームデビュー。3戦目からは先発に回り、シーズン全試合出場を果たしました。ブレイクするきっかけは何かあったのですか。
「開幕前、11月の延岡合宿で、伊藤平一郎さんがマンツーマンでスクラムを指導して下さったんです。そこで徐々に自分のスクラムの型ができてきました。平一さんが『コレはいけるわ』と言ってくださって、自信がつきました。
平一さんは、一緒にスクラムを組みながら細かいところまで指摘してくださって、練習のあとも一緒に映像を見て『ここはこうしたらどうだ?』とアドバイスをいただいて、修正を繰り返して、自分のスクラムができてきました。本当に平一さんが僕の師匠です。感謝しています」
――シーズン中、印象に残る試合やプレーは何かありましたか。
「サンゴリアス戦でスクラムトライを取れたのは嬉しかったですね。あと、ブラックラムズ戦では自分がトライできた。これはすごく嬉しかったです。大学時代もトライは取れていなかったので(笑)」
――それは嬉しいですね!どんなトライだったか振り返っていただけますか?
「相手ゴール前のラインアウトのこぼれ球だったんですが、クワッガ(スミス)が拾って、そのラックからピックしてトライしたんです。僕自身トライは高校時代以来だったので嬉しかったんですが、それと同じくらい、みんなが喜んでくれたのが嬉しかったです!」
――そしてシーズンが終わると、日本代表の宮崎合宿に練習生で参加しました。どんな流れで参加することになったのですか?
「日本代表候補合宿が始まる1週間くらい前でした。堀川監督から『練習生として行くか?』と聞かれて、そんなチャンスがあるのなら、と『行きます!』と即答しました。ジャパンの合宿に参加して感じたのは、全員のレベルが高い。すべてのプレーのスタンダードが高いな、ということです。もう、練習についていくのがやっとで、練習中も気が抜けない」
――勉強になったのはどんなところですか。
「たとえば同じポジションの稲垣(啓太=埼玉WK)さんは、練習でボールキャリーしてラックになったとき、僕だったらそこで自分の仕事は終わってるのに、稲垣さんは少しでも前が空いていたらダブルアクションで前に持って行く。ラックにオーバーに入るときも、前が空いていたらピックして持って行く。そういう意識の違いを勉強しました。日本代表はそこをスタンダードとしてやっているんだな、自分もそこまで意識を高めていかなきゃいけないなと思いました」
―― 一緒に合宿した日本代表のメンバーは国立競技場でオールブラックスと戦って、そのあとはツアーでイングランド、フランスと戦いました。どんな刺激を受けましたか?
「そうですね、PRでは同世代の竹内(柊平=浦安D-Rocks)が試合に出てるし、見てて『いいなあ』と思いますね」
――自分も早くそこへ行きたいとか、何年のワールドカップには出たいとかいうターゲットは設定していますか?
「うーん……それはあまり意識していません。いつの、というんじゃなく、目の前の試合に全力を尽くしながら、チャンスがあればいつでもチャレンジしたいと思っています。まずはリーグワンの試合に出ること、そこで良いプレーをすることです」
リーグワン2年目、飛躍を期すブルーレヴズには、個人としても飛躍を期すエマージングプレーヤー、伸び盛りの選手がひしめいている。河田和大はその中でも注目株のひとりだ。レギュラー獲得2年目の今季、河田がどんな進化を見せるかに注目しよう。 <了>
大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。