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青旬の轍 | 北村 瞬太郎 編

静岡ブルーレヴズ公式noteではこの度、新コンテンツ「青旬の轍(せいしゅんのわだち)」をスタート。

「青旬の轍(せいしゅんのわだち)」では、ラグビーファンやレヴニスタにも知っていただく機会がまだまだ少ない若手選手にフォーカスし、その過去・現在・未来を、クラブオフィシャルライターの大友信彦さんが深堀りしていきます。

若い選手たちがプロの世界に挑む姿は「青春」の延長線上。選手としての全盛期すなわち「旬」に向かう過程にある現在地と、過去から歩んできた道と未来へ繋がる道、すなわち「轍」を記録するロングインタビュー。


NTTリーグワン2024-2025。開幕から好調な戦いを続けている静岡ブルーレヴズ(以下、レヴズ)を象徴する選手の一人がスクラムハーフ(以下、SH)の北村瞬太郎だ。立命館大からアーリーエントリーで加入した昨季はリザーブにも一度も入れないままシーズン終了。しかし今季はコベルコ神戸スティーラーズとの開幕戦に後半30分から出場し、ラスト10分の逆転勝利に貢献。続く第2節の浦安D-Rocks戦ではリーグワン初先発&初トライ。そして第5節の東芝ブレイブルーパス東京戦では前半だけで2トライをあげ、前年王者を破る金星へとチームを引っ張りPOM(プレイヤー・オブ・ザ・マッチ)まで受賞した。開幕から4勝1敗と好調のレヴズにあって最も伸び盛りの、最もノッている、最注目のプレーヤーだ。

そんな北村選手をブルーレヴズオフィシャルライターの大友信彦が直撃。素顔を根掘り葉掘り聞いた。


――まずはラグビー歴から聞かせてください。名鑑を見るとラグビーを始めたのは小学2年とか。

「はい。小2のとき、父に横浜RS(ラグビースクール)に連れて行かれたのが始まりでした。父が高校から大学までラグビーをしていたんです。でも、自分では記憶がないんですが最初は嫌がっていたみたいです」
 
――ラグビーはいつ頃から楽しくなりましたか?

「小学生の間は楽しくなかったですね。体は小さかったし試合にも出してもらえないし。ただ、小学生の間はウイングだったんですが、中学でSHに転向して、ボールを持つ機会が多くなってからだんだん楽しくなってきました。そういえば、小6のとき『横浜RSのチームでタグラグビーの大会に出よう』となって、全国大会(サントリーカップ)で優勝したんです。あれは楽しかったな。いま横浜イーグルスにいる武藤 ゆらぎや平石 颯が一緒でした」
 
――後に対戦したり、同期でリーグワンに入ったりした選手がたくさんいたのですね。

「サントリーカップで対戦した東京の七国小には、ブレイブルーパスにいる池戸 将太郎がいました。小学生の間は元日本代表の川合 レオさんが平日にやっていた放課後ラグビーに通っていて、武藤 ゆらぎや、ブラックラムズの伊藤 耕太郎、レヴズの先輩の伊藤 峻祐さんとも一緒にやっていました。今季の早大の主将をやっていた佐藤 健次は、中学の時に横浜RSで僕の1つ下に入ってきて一緒にやりましたね」
 
――その頃はラグビーを続けていく目標はどのように持っていたのですか?

「全然、将来なんて考えてなかったです。自分で言うのも変だけど、ここまで来るような選手じゃなかった(笑)。ただ、その時々のチームで頑張って、試合に出続けていたら、少しずつ自分のレベルが上がっていった感じですね。僕は大きいケガをしたことがないんです。それがよかったのかもしれない」

――国学院栃木高校(以下、国栃)時代の記事には『日本代表になりたい』という記述がありました。そういう大きな目標を持つようになったのはいつ頃から?

「高2の夏のコベルコカップでU17の関東代表が選抜されたんですが、そこで同じ国栃のSO伊藤 耕太郎が選ばれて、僕は選ばれなかったんです。耕太郎とはそんなに差があるとは正直感じていなかったのに、自分が選ばれなかったことが悔しくて。その時に『高3では高校日本代表に選ばれるように頑張ろう』と自分の中で決めました」
 
――高校では1年からレギュラーになったんですよね。

「はい、1年から9番(SH)で使ってもらって、花園にも出ました。自分的にはそれで満足してたところがあったんですが、1年下のSHに、早大から今度レヴズに来る細矢 聖樹(せな)が入ってきたんです。聖樹はタックルが得意で、練習からすごいタックルをしていた。僕はそれまでそんなにディフェンスする方じゃなかったけど、聖樹が入ってきたことで尻に火がついて、ディフェンスにも取り組むようになりました」
 
――高3のときには日本でワールドカップが開かれました。新しい目標が見えたりしたのではないですか?

「いや、自分とは世界が違いすぎて、目指そうとかいう気持ちにはならなかった。田村 優(横浜キヤノンイーグルス)さんが国栃の先輩で、学校訪問に来てくれたりしたんですが、『カッコいいな~』と思って見ていただけでしたね(笑)。
それよりも、自分にとってはより身近な目標だった高校日本代表にも選ばれなかったんです。みんな、U17の時から選ばれていた選手ばかり。それが悔しかったですね」

 
――大学は立命館大に進学しました。

「高3の春に声をかけていただいて、関西にはそれまでまったく縁はなかったけど『ラグビーができればいいや』と思って決めました。ただ、入学したときはちょうどコロナが流行し始めたときで、6月までは実家で待機していました。その間は集まっての練習はできないし、ジムも使えない。壁当て用のボールを1個買ってもらって、家の車庫の壁に向かってずっとパスを投げていましたね。毎日1時間以上…2時間近くやってたかな。あとは近所を走ったり。実家のある横浜は坂が多いので、けっこう良いトレーニングにはなったと思います」
 
――大学でも1年からレギュラーを掴みました。

「はい。高校の3年間も、大学での4年間も、公式戦は全部背番号9を着させてもらいました。
ただ、自分としては現実の厳しさを思い知った4年間でしたね。同級生たちは大学1、2年の頃から早明戦や大学選手権で活躍していた。大学2年のとき、大学選手権の準決勝が明大vs東海大になって、伊藤 耕太郎と武藤 ゆらぎがSOトイメン対決したんです。あの試合は国立競技場まで観に行きましたけど、こっちはまだ関西リーグの優勝もできなくて、大学選手権に出場もできていない。『オレももっと活躍しなきゃ…』と焦っていました」

 
――大学4年間の関西大学リーグでの順位は5位―5位―6位-5位でした。そして卒業後はレヴズに入団します。どんな流れで入団が決まったのですか?

「大学3年になった4月に、レヴズの採用担当の西内さんに声をかけていただきました。そのときは嬉しさよりも『何でオレが?』という驚きの方が強かった。ディビジョン1のチームから誘ってもらえるなんて想像もしていなかったんです(笑)」

緊張した面持ちの入団会見(2024年3月28日)

――西内さんからは何と?

「西内さんは僕への評価や期待をパワポにまとめて説明してくださったのですが、パスのスピードとランの部分、強気なプレーを評価したと言っていただきました。そこは自分自身も大学に入ってから自信を持っていた部分です。大学に行ってから、不思議とトライが取れるようになったんです。走ると抜けるというか(笑)」
 
――そして昨年、大学4年のシーズンを終えてレヴズに入団します。でもなかなか出番はこなかった。

「正直、来る前は『アーリーエントリーですぐ出られるかな』と軽い気持ちで考えていたんですが、甘かった(笑)。ここに来て1ヵ月くらい経って、最初の藤井さんとの面談で、思い切り説教されたんです。『自分が目立とうと思ってプレーするようなヤツは使わない』『これまでトライを取れてたのはレベルの低いカテゴリーだったから、それだけだ』と……ホント、これまでの人生で一番、ボロカスに、全否定されました」

――それからはどういうことを意識して練習に取り組んだのですか。

「それまでは、練習でも自分でトライを取ろうと走るスペースを探してばかりいたんですが、藤井さんに叱られてからは、自分の役目に徹してパスをテンポ良く捌くことに集中しました。藤井さんや矢富さんからは『自分の役割を続けていればスペースは空くから』と言われて。半信半疑だったのですが実際にやってみたら、悔しかったけどその通りでしたね(笑)。前節の東芝ブレイブルーパス東京戦のトライはまさにそれでした」

――矢富さんからはどんな指導を受けているのですか。

「もう、全てですね。ボールの持ち方からラックの入り方、パスを投げたあとのコース取り…そもそも、あんなに長くて速いパスを投げる人なんて見たことなかったですから。引退して1年近く経つけど、いまだに僕より速いパスを投げる(笑)。今もむちゃくちゃ教わっています」

矢富コーチと藤井監督

――ただ、昨季でその矢富さん、ブリン・ホールさん、吉沢文洋さんという先輩SHが揃って引退・退団して、レヴズのSH陣はリーグワンで最も若い顔ぶれになりました。

「チャンスだと感じましたが、逆に『もしここで試合に出られなかったら?』という危機感も持ちました。絶対にここでチャンスを掴まなきゃならない。そのために、矢富さんに頼んでひたすら長いパスを放る練習を繰り返しました。自分が目立ちたいというような気持ちは一切なくなりましたね」
 
――そして今季の開幕戦となったスティーラーズ戦ではリザーブでメンバー入り。ラスト10分に出場して逆転勝ち、レヴズ初の開幕戦勝利に貢献しました。

「まず、メンバーに入れたことが嬉しかったです。背番号は21番だったけど、リーグワンの公式戦でジャージーを着られることがめちゃめちゃ嬉しかった。ただ、その分緊張もすごかった。開幕戦で、ホームで、自分のファーストキャップで。しかもピッチに入ったのがラスト10分5点ビハインド、雨も降っていてボールが手につかない。でも、その割にはいいパフォーマンスができたと思います。最後の最後に逆転して勝てたし、一生、記憶に残る試合になりましたね」

ついにリーグワンのピッチへ足を踏み入れた

――そのあとは岡﨑 航大さんとの併用が続いていますが、現在のSH争いをどう感じていますか。

「経験のある選手が他のチームよりどうしても少ないですから、自分だけでなくみんなで成長しないといけない。レヴズの強さをSHが下げるわけにはいきませんからね。
(岡﨑)航大さんはプレースタイルが僕とは正反対で、もともと10番(SO)や12番(CTB)をやっていただけに周りを見る能力がすごい。SHを始めてまだ1年ちょっとというけれど状況判断力がすごい。僕は速いパスさばき、テンポの部分では負けたくないです。あと、足の速さも自分の強みなので、テンポ良くパスを捌いて攻撃を重ねて、スペースが空いたらチャンスを逃さずトライする。それが自分の理想型ですね」

正反対な二人のスクラムハーフ

――そこに今度は、早大から細矢聖樹選手が加わってきます。

「聖樹はホントにディフェンスがすごくて、下にいられるとイヤというか(笑)、やらなきゃと思わせてくれる人間なんです。9番争いがさらに激しくなるのは間違いないけど、お互いにもっと成長するためにプラスになると捉えています」
 
――ここからの北村選手自身の目標を聞かせて下さい。

「まずブルーレヴズで日本一になることが一番の目標です。それが達成できれば、日本代表も近づいてくると思う。高校や大学のときよりも近づいてきていると思います。試合で対戦するSHは日本か外国で代表キャップを持っているような選手ばかりですから。ここで勝っていければ、代表の座も近づく」
 
――これから対戦したい選手の名前をあげてもらえますか?

「まず、次節で対戦するサンゴリアスの流 大さんですね。日本で一番うまいSHだと思うし、そんな選手を相手にどれだけできるか。めちゃめちゃ楽しみです。
あとは、国学院栃木で一緒だったブラックラムズの伊藤 耕太郎、横浜RSで一緒だったイーグルスの武藤 ゆらぎとやるのは楽しみです。大学時代は一度も対戦できなかったので、やっと同じところまで来たなと。
ただ、今試合に出してもらっているからといって、これで満足したり、これが当たり前と思ったりしたらダメ。調子に乗らず、弱気にもならず、ひたすら謙虚に取り組んでいきます」

次節も速いパスさばきで攻撃のテンポを刻む

――「謙虚」という言葉は自分で決めたものですか、それとも誰かに言われたのですか?

「もう、藤井さんと矢富さんに毎日言われています。『調子に乗るなよ』と。レヴズに誘ってくれた西内さんからも『お前はすぐに調子に乗るからな』と釘を刺されていますし、自分で自分に毎日、言い聞かせています(笑)」

――最後に、レヴニスタの皆さんに、自分のここを注目してください!というメッセージをお願いします。

「自分のパスでテンポを作って、レヴズのアタックに勢いをつけていくプレーを見ていただけると嬉しいです。スタジアムでお待ちしています!」

 
――今日はありがとうございました!


Text by 大友信彦(静岡ブルーレヴズ オフィシャルライター)
Photo by 静岡ブルーレヴズ /谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)


大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。