ヤマハ発動機ジュビロと、静岡ブルーレヴズと、大漁旗
Text by 大友 信彦(静岡ブルーレヴズ オフィシャルライター)
Photo by 静岡ブルーレヴズ / 谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)
第2節、ホスト開幕埼玉ワイルドナイツ戦が行われたヤマハスタジアム。太陽を正面から受ける北スタンドに、ジュビロ時代から続くチームのシンボルが帰ってきた。
選手の名前や似顔絵イラストなどが、目がチカチカしそうな極彩色で染め抜かれた、鮮やかすぎるほどにハデハデな、何本もの大漁旗だ。
過去2シーズンはコロナ禍により、応援旗は試合中のスタンドで振ることを禁じられていたが、リーグワン2年目を迎えた今季は旗を振っての応援が解禁され、久々にスタンドになびく大漁旗を見られることとなった。
思い出すのは2015年2月、ヤマハ発動機ジュビロが初めて日本選手権に優勝を飾った秩父宮ラグビー場の光景だ。廃部の危機、部員数激減の危機を乗り越え、サックスブルーのジャージーが初めてのタイトルを掴んだとき、喜びのバックスタンドにはたくさんの大漁旗が翻っていた。
しかし、なぜジュビロの応援には大漁旗がつかわれるようになったのだろう。
記者は、その「最初の人」にたどり着くことができた。
高岩和夫さんはヤマハ発動機の子会社「ヤマハ発動機マネジメントサービス」の管理職をしているとき、のちに主将としてヤマハ発動機ジュビロ初の日本選手権優勝を達成する三村勇飛丸選手が新入社員として配属されてきた。
「たまたま、私の卒業した明治大学の後輩だったんですね。私も学生時代は4年連続で国立競技場に早明戦を見に行って、ラグビーの盛り上がりを体感していたし『これは応援しなきゃ』と思ったんです」
じゃあ、どんな応援の仕方がいいだろう? と考えた高岩さんのイメージに飛び込んできたのが、三村選手の名前だった。
『勇飛丸』
である。「丸、とつく彼の名前を見て、真っ先に思い浮かんだのが漁船のイメージです」それはすぐに『応援用の大漁旗を作ろう』というアイデアに繋がった。「僕は新入社員のときからしばらく、マリン事業部で漁船のエンジンを販売する営業を担当していて、進水式にもたくさん立ち会ってきたんです。あの華やかな感じを出せたら良いな、もう大漁旗しかないな、と思いました」
高岩さんは静岡県内だけでなく三重県、福岡県も担当した。福岡時代は県内だけでなく九州各地を担当。長崎の離島にも何度も通ったという。進水式ではその船に送られたたくさんの大漁旗が飾られるだけでなく、漁師仲間の旗も一緒に掲げられ、それはそれは華やかな空間だった。ラグビーを応援する現場も、そんな華やかな空間だったら良いな、と高岩さんは思った。
じゃあ、どんな大漁旗を作ったらいいだろう?
高岩さんのイメージは「勇飛丸」の名から連想した「夕陽」と、「丸」から連想する船=海、そして、これから強くなって勝っていくイメージを託した「昇り龍」。それらをあわせたデザインを、北海道にある業者に作ってもらったという。「綿素材で、本染めの、本物の大漁旗です」
その旗を持って、高岩さんはジュビロの全試合に応援へ行ったという。そのシーズン、スタンドに応援旗は「1本だけでした(笑)」
まだ珍しかった応援大漁旗にはいろいろなエピソードが生まれた。「写真撮らせてください」「振らせてください」という申し出は定番。やがて、スタジアムに応援に来る人が待ち合わせ場所として「大漁旗のところにいるよ」と言うようになった。「うかつに動けなくなりました(笑)」勇飛丸の大漁旗は渋谷駅のハチ公、上野駅のパンダ、名古屋駅のナナちゃんに相当するヤマハスタジアムのランドマークとなったのだ。
そこまで目立てば、多くの人の知るところになる。ある日、高岩さんはマリン事業部時代の上司から言われたという。「五郎丸の旗もないのになんで勇飛丸の旗があるんだ? 五郎丸の旗も作るから、どこでつくればいいか教えろ!」
時はちょうど、ヤマハ発動機ラグビー部が「プロ選手廃止・強化縮小」の荒波に揉まれた期間を経て、再起を図っていた時期だ。現在CROを務める五郎丸歩さんやプレイングコーチの矢富勇毅さんら、プロ契約選手として入団した選手が社員として各部署に配属された。それまで「職場」のなかったプロ選手にも上司や同僚ができ、いわば、もっとも身近な個人応援団が結成されたわけだ。高岩さんのかつての上司は、五郎丸さんの上司になっていた――かくして「勇飛丸」に続く「五郎丸」の大漁旗が生まれたのだ。
それを皮切りに、高岩さんのもとには社内のいろいろな部署の人から電話やメールが届くようになった。
内容はほとんどが「大漁旗の作り方/発注先を教えて下さい――」
やがて、そうして増えた大漁旗を振る人たちは自然と仲間になり「旗振りのフォーメーションを考えたり、一般の方に邪魔にならないように自分たちでルールを作ったり。試合のあとは『旗振り仲間』で飲みに行ったり(笑)」
高岩さんのこだわったリアルな大漁旗は「木綿・本染め」だった。「風を受けたときのはためき方が違うんですよね。雄大というか。」いわばホンモノの旗。だがその分、風を受けたり、雨に濡れたりするとめちゃくちゃ重くなる。「そういうときは、近くにいる知らない人が支えてくれたり、たたむのを手伝ってくれたりしたこともあります。試合のあと、飲みに行ったら手伝ってくれた人が同じ店にいたり、なんてこともありました」
職場にラグビー選手がいることは、やはり幸せなことなのだ。高岩さんのいたマネジメントサービスは女性が9割を占める職場で、当初はラグビー部の認知度はゼロに近かったというが、三村選手の加入とヤマハ発動機ジュビロの躍進で、認知度も人気も着実に上昇。地元ヤマスタだけでなく秩父宮や花園の試合にも応援ツアーを組んだり、慰安旅行をジュビロの試合の応援とあわせて組んだりしたという。全社の応援ツアーにも、他部署との相乗りではなく「ウチの部署だけでバス1台貸し切りで組んでもらいました(笑)」。
ヤマハ発動機ジュビロが躍進していき、ラグビー部員が所属する部署が盛り上がっている様子は、ラグビー部員のいない部署から眩しく見えていたようだ。
「当時、私のいた部署にはラグビー部員がいなくて、うらやましいなあ、と思っていたんです」
と話すのは猿渡裕さん。ヤマハ発動機SPV事業部で電動アシスト自転車の開発に従事していた。
「そう思っていた頃に、同じ部署に西内勇人(FL、2015年入社)が配属されてきたんです。聞くと、出身が福岡で、私と同郷だったんですね。これは応援しなきゃ(笑)。ちょうど同じ部署に、五郎丸さんや矢富さんの応援旗作成に関わった方がいらして、同じように作りました」
デザインには、部署の商材である自転車を、静岡の象徴である富士山の頂上に乗せる案を採用した。旗の作成にあたっては、部署の皆さんがお金を出し合ったという……
そうして多くの選手のオリジナル応援旗が増えていき、旗振り仲間が増えていくうちに、誰からともなく「みんなの分がほしいよね」という声も上がったという。「職場」のないプロ選手には応援旗がなかったのだ(リーマンショックからの業績回復とチームの成績向上が相乗効果となり、ジュビロには外国人選手を含むプロ選手が再び増えていた)。職場のないプロ選手の応援旗を作るためのクラウドファンディングを実施し、ヴィリアミ・タヒトゥアら外国人選手の応援旗を作ったという。
一方、そんなケースとは逆に、選手が職場を異動するのにあわせ、新しい部署で新しい応援旗が作られるケースもある。ちょっとマニアックな話になるが、同じ選手を応援する複数の旗をチェックするのもレヴニスタにとっては面白いテーマかもしれない。
また、旗のデザインや作り方(作られ方)も時代とともに多様化してきた。
近年加入した選手の応援旗作成にあたっては、旗全体のデザインを色味、名前のフォント、プリントする選手の写真などなどの候補となる多くの要素を部署内でコンペにかけ、投票結果を反映させて作られた旗もあるという。中には選手自身が座右の銘にしている言葉を入れたり。
「個性的な旗が増えていますね」と猿渡さんは笑う。まさしく多様化、ダイバーシティの時代を体現している。
ラグビー界では古くから「大漁旗=釜石」という構図があった。
1970-80年代に日本選手権7連覇を達成した伝説のチーム・新日鉄釜石の全盛期は、満員の国立競技場にはためく大漁旗が風物詩だった。釜石の場合は、地元の漁師さんたちのホンモノの大漁旗を応援旗として使うのが応援スタイルだった(当時は個人の旗を新たに作るという発想がなかったようだ…)。
現在のブルーレヴズにとっても、釜石との繋がりは特別な意味を持っている。
2011年、東日本大震災が起きて3ヵ月も経たない6月5日、ヤマハ発動機ジュビロは釜石を訪れて釜石シーウェイブスと試合をした。それは、甚大な被害を受けた東北の沿岸地域で震災後初めてのスポーツイベントだった。
まだ仮設住宅も建っていない頃、避難所になっていた体育館などから応援に駆けつけた地元のファンは、相手チーム(ヤマハ発動機ジュビロ)にどれだけトライを重ねられても大漁旗(富来旗)を振り応援し続けた。
この試合でジュビロのゲームキャプテンを務めた五郎丸さんは「地域に愛されるチームとはこういうチームなんだと教えられた」と話した。このとき就任1年目だった清宮克幸監督は「優勝したときは、この釜石戦から始まったと言いますからね」と約束した。ヤマハ発動機ジュビロはその後も釜石シーウェイブスとの交流を続け、2017年にはシーウェイブスがエコパを訪れ、2018年にはジュビロがワールドカップに向け釜石に新設されたスタジアムを訪れオープニングマッチを戦った。コロナ禍のあとも交流は続き、2021年からはジュニアの交流も続けられている。津波警戒区域がつないだ縁でもあり、大漁旗がつないだ縁でもある。それはプロフェッショナルのスポーツクラブが地域と繋がって活動していく重要な意義のひとつであり、大漁旗はその象徴でもある。
いくつもの縁が絡み合い、静岡ブルーレヴズの試合が行われるスタジアムには、今日も大漁旗がはためくのだ。<了>
大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。