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矢富勇毅 ~最後に増えた手術回数、そして今のキモチ~前編【PLAY BACK Interview②】

Text by 大友信彦(静岡ブルーレヴズオフィシャルライター)
Photo by 静岡ブルーレヴズ /谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)

「反響の大きさに驚いています」と矢富勇毅は言った。
5月2日の引退発表。そして5月5日のラストゲームと引退セレモニー。ヤマハスタジアムを埋めた満員のファンが、17シーズンにわたってジュビロそしてブルーレヴズを支えた英雄に拍手を贈り、栄光の競技生活を称え、別れを惜しんだ。

インタビューを行ったのは、満員のヤマハスタジアムでのラストマッチから1週間後の5月13日だった。
「いろいろな声をいただいて、感謝の思いでいっぱいです。もう来年はラグビーをしないんだな、と考える暇もなかったけど、1週間経ってやっと少しおちついて、正直、少しラグビーロスになってきたところです。もう練習することも、シーズンに向けて調整することもないんだな、と……」

――ラグビーのない生活は寂しいですか?
「今までも、オフになったら基本、ラグビーからはガッツリ離れていたんです。ビデオも見なかった。スイッチのオンオフの切り替えはしっかりできてる方だったんです。だからここまで長く現役生活を続けられたのかな。そういう意味では、今までとあまり変わってないのかもしれません。この2日間は、去年までレヴズでハーフ団を組んでいた清原祥がHCをしている女子チーム『アザレア・セブン』の試合を応援に行ったりしてました。
僕も、先日の引退会見で『いずれはコーチを目指したい』と発言しましたが、清原も女子チームのコーチを始めて1年目でいろいろ経験して、成長しているんだなと感じました。僕も、今まではチームで一番ベテランという立場でしたが、これからは何を始めるにしても新人、ゼロから学ぶつもりで今後に繋げていかないといけないですね」

 
そう言うと、矢富は、現役生活最後の「勲章」について自ら明かした。

「そういえば、僕、現役最後の試合でまた骨折したんですよ。ブレイブルーパス戦の前半、右の中指骨(ちゅうしこつ)。脱臼だと思ってたんですが、めちゃめちゃ痛い。僕の人生史上一番と言っていいくらい痛かった。でも現役最後の試合だったし、弟がリザーブに入っていたから、できたら出てくるまで頑張ってピッチに立っていたかったし、ホントはダメなんですけど藤井監督には痛いことを言わずに、トレーナーに頼んで痛み止めだけ打ってもらったんです。でも痛い。結局、次の日に病院へ行って見てもらったら骨折していました」
 
――引退会見のとき『これまで手術したのは15~16回、おそらくリーグワンの選手では最多です』と、言っていましたね。
「はい。1回増えました(笑)」

前半30分頃、この時にはすでに負傷していたという

――引退会見では、現役生活の思い出を聞かれて『ケガをするたびに戻ってこれたこと』を挙げられていました。その思いを聞かせて下さい。
「ケガをするたびにすごく不安になっていましたからね。特に前十字靱帯を切ったときには、歩き方も忘れてしまいました。2週間とか2ヵ月とか歩けない時間が続きましたから。だから最初は『歩けるかな?』というところから始まり、歩けたら次は『走れるようになるかな?』……そうやって一歩一歩、できることを増やしていって、何とかグラウンドへ帰ってきた。毎回そうでした。肩をケガしたときは『もうタックルには行けないかもしれない…』『前のように腕を振れるようになるだろうか…』とずっと不安でした。
一番大変だったのは手首の骨折でした。ラグビー界ではあまり例のない手術で、手首の可動域が戻るかどうか、前例がなかったからすべて手探りだった。悩みましたね……結局、悩んでいてもしょうがないんでひたすら練習を重ねて、何とか放れるようになりました。
僕、指も曲がってるんです。左の小指は伸ばせないし、曲げられない。力が入らないんです。スクリューパスを放るときは小指でスピンをかけるといいますが、それができない。だからどうやったらいいか、誰かに聞けることでもないし、一生懸命、指の力に頼らない投げ方を考えて、練習をして……諦めるか諦めないか、自分との戦いでした。
ただ、これからもケガをする選手は出てくると思うし、ケガした人じゃないと分からないところ、メンタルの部分の難しさとかを経験していることは、これから指導者を目指すにあたって僕の財産になるんじゃないかと思っています」

100CAPS達成試合の時には鼻を骨折し、ガードをつけての試合となったことも

――同い年で競ってきたライバルの田中史朗さんもこれから指導者を目指すと公言しています。
「フミはホント、中学時代に出会って以来27年間、ずっとライバルとしてやってきました。ホント、アイツのパス、間合いの上手さには嫉妬してましたよ。自分も現役の間は口には出しませんでしたが、ずっとそう思ってた。
そもそも僕、基本的にラグビーセンスの乏しい人なんです。ラグビーはヘタクソ。しかもSHを本格的に始めたのは大学に入ってから。だから練習量で補ってきた。これには自信があります。『良いパスを投げたい』『もっと上手くなりたい』。その思いでずっとやってきました。ヘタクソだったからこそ、上手くなりたい一心で、SHを極めたいという思いでずっと練習に取り組んできた。異端のSHだったし、異端のスタイルをやりすぎてケガもたくさんしたけれど、正統派のSHの技術も身につけようとずっと努力はしていた。だからこのトシまでできたという思いはあります。
 
でも、僕とフミって、仲が悪いと思ってる人がいるみたいですが、そんなことないですよ。2人でも飲みに行くし、代表合宿のときなんか、同じ部屋になると、夜中の2時3時まで語り明かしたこともあります。同じ年に引退するのも何かの縁だろうし、アイツもコーチになるというから、どこかでまた違う立場で対戦できたらいいですね」

サンウルブズでも共にプレーし切磋琢磨してきた田中史朗

――日本代表には2006年に初めて選ばれて、ラストキャップは2015年の香港戦でした。
「2009年のあと、ケガもあってずっと選ばれなかったけど、2014年のジョージア戦で5年ぶりのテストマッチに出られたんです。嬉しかったですね。最後になった2015年の香港戦は、大雨で前半だけで試合終了になったんですよね。五郎丸のPG1本だけで勝った。よく覚えています。
そのあとは代表候補に呼ばれる機会はなくなったけど、自分ではずっと意識していました。誰がどう思っているか、年齢がいくつになったかなんて関係ないんです。また代表に相応しいと思ってもらえるように、フィジカルも高く保たなきゃいけないし、もっと伸ばしたいと思っていた。
近い世代の選手が頑張っているのも嬉しかったですね。フミもそうだし、2歳違いのワサ(日和佐篤=神戸スティーラーズ)もずっといいパフォーマンスしてましたからね。神戸が強くなったときは、ワサのパフォーマンスがすごく良くて『頑張ってるな、負けてられないな』という思いもありました。
今回、僕は先に引退することにしましたが、同世代で頑張ってきた選手たちにはこれからも頑張って欲しいし、彼らの頑張りを見届けたい。個人的に、応援していきたいと思っています」

今シーズン第2節では矢富が先発、日和佐は交代で、一緒にピッチに立ったのは数分だったが、試合後に会話する姿が印象的だった

――改めて、引退を決意した理由を聞かせていただけますか。
「僕の場合、今までは、目標を達成したいという思いが、努力して、いろいろな壁を乗り越える原動力になっていたんです。それは日本代表になりたいとか、ワールドカップに出たいとか、ケガをしたあともう一度グラウンドに立ちたいとか。ヤマハのチームが一度強化を縮小したときは、このチームで優勝したいという思いが強くなりました。弟(洋則)と一緒に試合に出る、というのもありましたね。その一環として、40歳まで現役でプレーする、というのも目標にしていました。僕がヤマハ発動機ジュビロに入団したシーズンに、SHの大先輩の村田亙さんがちょうど40歳までプレーして引退されたんで、その記録を超えたいと思っていました。
 
だから、40歳が近づいてきてからも『40歳まで現役でプレーしてやる』という思いを持っていたんです。ただ、今シーズンの途中で藤井監督と話をする機会があって、『40歳からは何をしたいんや?』と聞かれたんです。そのあとも人生は続く。40歳まではやれたとしても、50歳までトップレベルでできるかといえばそれは難しい。どこかで切り替えなきゃいけない。
そう考えてからですね。そもそも指導者になりたいという思いはありました。2021-2022年の2シーズン、プレイングコーチをさせていただいたのもその思いがあったからです。
これからどうするか?を考えたときに、思い浮かんだのが一番近くにいた
有賀剛 さんです。学年は僕の1歳上ですが、もうコーチとして7-8年くらいのキャリアを積んで、素晴らしいコーチになっている。コーチを始めてからすべてが成功だったわけじゃないと思うし、失敗もあったと思うけれど、あらゆる経験を自分のコーチとしての力に繋げてきたことが分かるんです。そう考えたときに、自分も早くコーチを始めたいな、という気持ちが強くなったんです」

近くにお手本となる有賀剛がいたのは大きかった

今後、どのようなスタンスでコーチ業にとりくんでいくのか、自身の抜ける静岡ブルーレヴズの後輩SHたちに寄せる期待などは、近日公開予定の「後編」にてお届けします。


大友 信彦(おおとも のぶひこ)
1962年宮城県気仙沼市生まれ。早大第二文学部卒。1985年からフリーランスのスポーツライターとして活動。『東京中日スポーツ』『Number』『ラグビーマガジン』などで取材・執筆。WEBマガジン『RUGBYJapan365』スーパーバイザー。ラグビーは1985年から、ワールドカップは1991年大会から2019年大会まで8大会連続全期間を取材。ヤマハ発動機については創部間もない1990年から全国社会人大会、トップリーグ、リーグワンの静岡ブルーレヴズを通じて取材。ヤマハ発動機ジュビロのレジェンドを紹介した『奇跡のラグビーマン村田亙』『五郎丸歩・不動の魂』の著作がある。主な著書は他に『釜石の夢~被災地でワールドカップを~』『オールブラックスが強い理由』(講談社文庫)、『読むラグビー』(実業之日本社)、『エディー・ジョーンズの日本ラグビー改造戦記』(東邦出版)など。

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